【上越市とは】新潟県上越市を歴史と観光の観点からやさしく紹介|直江津.春日山城.上杉謙信.高田城址公園


【上越市とは】ああわがまちは上越は・・・ 
ーもくじー
上越市の地理とおもな地名
直江津 越後国府 ●親鸞聖人 海水浴と水族館 ●上杉謙信 「天と地と」「天地人」 ●福島城
高田 高田開府 松平忠輝 松平光長 榊原家 高田本町商店街
高田と直江津 直江津駅が県鉄道発祥の地 ●前島密は鉄道にも尽力 ●陸軍第13師団 長岡外史の旧師団長官舎 ●蔣介石 ●日本スキー発祥 ●桜と蓮の高田城址公園
上越 上越市誕生 ●平成の大合併 ●北陸新幹線上越妙高駅
付録 ●地理統計など ●上越市合併略年表 ●消えた高田と直江津 ●しっくりこない住居表示 ●「地区」と「区」 ●地名を意識する駅 ●関連キーワード ●新潟県の日本一

上越市の地理とおもな地名
上越市位置
上越(じょうえつ)市は新潟県の南西部、上越地方にあり、高田平野が広がる。昔上越地方を頚城郡(くびきぐん)といったので、高田平野を頚城平野またはくびき野ともいいます。北は日本海を臨み、東西は山が連なり、背後の南には妙高山(みょうこうさん/隣の妙高市の山)を望む。
妙高山
おもな地名は、直江津(なおえつ)、春日山(かすがやま)、高田(たかだ)。これは国鉄時代からJR時代を経て、現在はえちごトキめき鉄道(トキ鉄)の駅名である。
上越市中心部の路線図


直江津
平安時代、越後国府になった直江津
五智国分寺の三重の塔
直江津港は古くからの港で、現在は大きな船が入る港である。直江津は歴史の古い港まちで、越後国府だった。越後の都であり、今でいうと県庁所在地です。今も上越市に「国府」の地名は残る。 
奈良時代に置かれた最初の越後国府は頚城郡にあったと考えられている。最初は現在の高田地区郊外(今池、子安あたり)にあって、それが平安時代11世紀に直江津地区に移ったと推定されています。

また、国府の名残りが五智国分寺である。室町時代(戦国時代)に上杉謙信が奈良時代の「越後国分寺」を五智の地に再建したもの。三重塔は古いですが、奈良時代のものではなく、謙信の時代のものです。


鎌倉時代、親鸞聖人が住んだ越後国府の直江津
親鸞聖人像(居多ヶ浜付近)
鎌倉時代の1207年(承元元)浄土真宗の開祖親鸞聖人(しんらんしょうにん)は35歳の頃、念仏弾圧で越後国府に流されて来られました。直江津海岸の西にある居多ヶ浜(こたがはま)が親鸞聖人上陸の地といいます。
居多ヶ浜
はじめは竹之内草庵(五智国分寺の境内)、その後今の本願寺国府別院(旧称小丸山別院/西本願寺の別院)の場所に移り、越後には5年ほど住んでその間、恵信尼(えしんに)と結婚された。流罪が赦免された親鸞聖人は関東へ移ります。


海水浴と水族館の直江津
なおえつ海水浴場
現在の直江津海岸、郷津海岸は、夏にはなおえつ海水浴場と総称される海水浴やキャンプのスポットである。夏には内陸の長野県方面からの海水浴客が多く訪れるので、「長野の海」のように言われます。直江津海岸の前には上越市立水族博物館「うみがたり」がある。


戦国時代、上杉謙信が春日山城主になり栄えた直江津
上杉謙信像(春日山城跡)
1548年(天文17)上杉謙信春日山城の城主となる。春日山城からは離れるが、謙信の時代もやはり直江津駅付近が大きなまちでした。当時直江津駅付近は府中(ふちゅう)や府内(ふない)とよばれた。ともに国府と同じような意味。
上杉家家紋:上杉笹紋
謙信公の登場で直江津地区は全国有数のまちになり栄えた。歴史書では「越後府中は京都に次ぐ大都市だった」などと表現されている。謙信公の時代が上越市の全盛期といえましょう。春日山には謙信公をまつる春日山神社があります。
春日山神社
昭和の「天と地と」平成の「天地人」

上杉謙信の生涯を描き1969年(昭和44)NHK大河ドラマや角川映画になった小説は海音寺潮五郎の「天と地と」です。当時大河ドラマをきっかけに、春日山はだいぶ整備が進んだ。
上杉勢軍旗の毘

上杉景勝(かげかつ)の家老・直江兼続(なおえ・かねつぐ)の生涯を描き2009年(平成21)NHK大河ドラマになった小説は火坂雅志の「天地人(てんちじん)」(2006年=平成18年発表)です。謙信公亡きあとを継いだ景勝は豊臣秀吉に従うが、会津に国替(くにがえ)を命じられて、上杉家は上越から去ってしまう。のちに徳川家康によって、上杉家は米沢(よねざわ/山形県)に国替になる。
戦国大名の子孫の多くが断絶したり無名化するなか、米沢藩の上杉家は江戸時代を通じて存続しました。
直江兼続の兜前立ての愛


安土桃山時代、直江津港まえに築かれた福島城
(越後)福島城跡(直江津港前)
1598年(慶長3)上杉家が去って豊臣秀吉の家臣の堀秀治(ほり-ひではる)が春日山城に入る。すると直江津に福島城築城を開始した。しかし完成前に秀治は急死してしまいます。1607年(慶長12)12歳の子堀忠俊が入城して、春日山城は廃城に。府中や府内と呼ばれた直江津駅付近から、福島城下に多くの人が移ったという。
(越後)福島城イラスト
福島城の場所は「直江津港佐渡汽船フェリーのりば」に近い旧古城(ふるしろ)小学校の辺りで、石碑がある。今は港町(みなとちょう)だが、昔はこの一帯を「福島」と呼んだのだろう。今もやや離れて「西福島」の地名が残る。なお、昔は福嶋城」と書いた。福島市の福島城と区別して「越後福島城」とも表現される。
1610年(慶長15)徳川家康の時代になると、お家騒動を理由に堀家は改易されてしまいます。忠俊の居城はわずか3年だった。
堀家家紋:丸に梅鉢紋
同年、家康の六男松平忠輝が福島城に入る。しかし1614年に高田城を築いて移り、福島城は廃城となってしまう。直江津の福島城は7年ほどの短命なお城でした。
福島城のまま江戸時代も続いていれば、のちの直江津と高田の対立も無く、雪は高田より少ないので、もっと地域が発展していたかもしれません。

高田
江戸時代前期、直江津から移転し高田開府 初代城主は家康六男松平忠輝だったが

高田城三重櫓と桜
1614年(慶長19)徳川家康の六男松平忠輝は高田城を築き初代城主となる。江戸時代続く高田藩のはじまり、高田開府です。古くから直江津地区が越後国府、越後の都だったが、高田にその機能を移転することになった。福島城下(上越市港町)から町人やお寺が多数移ったという。高田は越後の都として発展するはずでしたが・・・。
松平家家紋:葵の紋
1616年(元和2)松平忠輝が改易(かいえき)されてしまう。理由は諸説ある。入城してわずか2年のこと。越後は中小の藩が分立することになる。高田は越後の都ではなくなりました。
松平光長時代が高田藩全盛期だったが
1624年(寛永1)越前から来た松平光長が高田城主になり、御三家に次ぐ四家という高い格式で、高田藩は復活した。光長の時代が高田藩の全盛期と見られます。
ところが、光長は60年近くも在位しながら、1681年(天和1)「越後騒動」といわれたお家騒動を理由に改易された。これで高田は転落し、以後高田は並の藩になる。その後も高田城主は相次いで国替を命じられて定着しなかった。


江戸時代半ばから榊原家で続いた高田藩
榊原家家紋:榊原源氏車
謙信公の没後、上越の地で城主になる家は長く続かなかった。改易されたり、国替で去ってしまい定着しなかった。
しかし1741年(寛保1)榊原家(さかきばら-け)が高田城主となり、江戸時代半ばから廃藩まで六代続きました。石高は十五万石だった。高田城址公園の外堀向いには、榊原家をまつる榊神社(さかきじんじゃ)がある。
榊神社
江戸時代からの町人まち高田本町商店街と本町通り 
高田本町商店街(上越市本町4丁目)
高田本町商店街は、江戸時代から高田城下町の町人のまちでした。えちごトキめき鉄道の高田駅と高田城址公園の間に位置する。自動車が普及していない時代は大変なにぎわいだった。近年は往年のにぎわいはないが、お花見や本町通りのイベントでは、多くの人が集まる。大好評の「越後・謙信SAKE(酒)まつり」が行われるのは、この本町通りです。




高田と直江津
明治時代になり小さい町村が多数存在した。高田の町人まちには高田呉服町、高田上小町、武士まちには高田三ノ辻町、高田四ノ辻町など、多くのまちがあった。ほとんどが「高田」を冠する町名だった。直江津には、直江津町のほか、高崎新田、至徳寺村、安国寺村などがあった。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行でそれらが合併した。高田の町人まちは中頚城郡高田町となり、武士まちは中頚城郡高城村(たかぎむら)となった。直江津は中頚城郡直江津町となった。

明治19年、直江津駅が新潟県鉄道発祥の地に 
1886年(明治19年)8月15日、国鉄信越本線・関山駅 - 直江津駅間開通と同時に、直江津駅は終着駅として開業した。そのため、直江津駅を「新潟県鉄道発祥の地」といいます。

郵便の父・前島密はふるさとの鉄道にも尽力
現上越市出身で鉄道に深く関わった人物がいた。「郵便の父」と称され、1円切手の肖像である前島密(ひそか)です。
密は明治政府に任官して間もない1870年(明治3年)、上司の大隈重信から鉄道の建設費と営業収支の見積りを作るよう命じられ、苦心の末に精密な計画案「鉄道憶測」を作り上げた。
明治27年(60歳)北越鉄道会社社長となり、難工事の末に明治37年直江津-新潟間を開通させた。

前島密は郵便のイメージが強いが、令和時代の新1万円札で知られる渋沢栄一は密とともに社会インフラの整備に大活躍をした人物です。
密は、高田郊外の現上越市下池辺出身で、江戸に出て幕臣となり、のち明治政府官僚、政治家、実業家として活躍した。漢字廃止を建議(難しい漢字の使用をやめるように)江戸遷都を建言(東京が首都になる)、郵便事業創始、鉄道、運送(現日本通運を設立)、海運、新聞、電信・電話、大学教育(現早稲田大学校長に)、保険など、日本近代文明に多大な功績を果たした。

没後の大正10年(1921)、生家である上野家(密の幼名は上野房五郎)の屋敷跡に前島密を顕彰する石碑が建立された。表面の題字は前島密と親交のあった渋沢栄一が書き、裏の撰文は市島謙吉(春城/阿賀野市出身の随筆家)が書き、会津八一坪内逍遥が校閲している。
昭和6年(1931)、上野家跡地には前島記念館が建ち、密の業績を伝えています。




明治時代末期、陸軍第13師団を誘致して高田市誕生「軍都高田」に
第13師団のレンガ門(高田城址公園)
1908年(明治41) 大日本帝国陸軍第13師団(だいじゅうさんしだん)が高田城址に入城。高田を語るうえで欠かせないのが陸軍です。廃藩置県後に高田は衰退したため、町人の高田町が誘致運動を行い師団が設置された。師団が無ければ、その後の高田はもっと寂れたものになっていたでしょう。残念ながら、高田城址公園で13師団の面影をとどめるものはレンガ門くらいである。

同じ明治41年、町人まちの高田町と武士まちの高城村が合併し、新たな高田町が誕生。これは1月1日のことで、師団の入城開始に合わせたものです。
1911年(明治44)市政を施行して高田市が誕生した。高田市が誕生したのは、陸軍のおかげで町人まちと武士まちが一体になったためだった。陸軍がいた時代の高田は「軍都高田」と表現されました。



スキーの先駆者長岡外史の旧師団長官舎
長岡外史師団長
長岡外史(1856年~1933年)は「日本の航空とスキーの先駆者」と評価された軍人・政治家で、出身地山口県下松市にはその名の「外史公園」があるほどです。外史の長いヒゲの長さは約70㎝もあり、「プロペラひげ」とも呼ばれた。
旧師団長官舎(上越市大町)
1910年(明治43)に師団長の長岡外史中将の邸宅として建てられた和洋折衷の木造建築が
旧師団長官舎です。旧師団長官舎は、南城町の高田高校のとなりにあったのを1993年(平成5)に市が大町に移築した。長岡外史のブロンズ像がある。
2021年(令和3)4月、旧師団長官舎をまちのにぎわいづくりに役立てようと、1階にフレンチレストランとカフェをつくり「レストランエリス」がオープンした。

蔣介石が高田に留学
なお、第13師団には蔣介石(しょうかいせき/初代中華民国〈台湾〉総統)が留学した。高田に居たのは1910年頃から約1年間らしい。陸上自衛隊高田駐屯地の郷土記念館に「山下清・蒋介石コーナー」があって、そのことが伝えられている。


明治44年、長岡外史とレルヒにより高田の金谷山で日本スキー発祥
    ゆるきゃら レルヒさん 
1911年(明治44)長岡外史がスキーの指導をオーストリアの軍人・レルヒに依頼した。レルヒは金谷山(かなやさん)において、日本で初めてとなるスキー指導を将校らに行った。これが日本スキーの発祥です。上越市の金谷山は日本スキー発祥の地に認定されている。金谷山には日本スキー発祥記念館やレルヒ像、石碑がある。金谷山はその後高田市域になったので、昔は「高田の金谷山」と言われていた。

レルヒをキャラクターにした「レルヒさん」は現代の新潟県のゆるキャラです。レルヒさんの着ぐるみは県内各地のスキー場などで活躍しています。


桜と蓮の高田城址公園
高田城三重櫓と夜桜
現在、城あとの高田城址(じょうし)公園 は桜(サクラ)蓮(ハス)のお花見の名所です。夜桜の名所で「日本三大夜桜」のひとつと表現される。4月お花見の「高田城址公園観桜会」(旧称「高田城百万人観桜会」)は多くの露店が出店し、通常は百万人の人でにぎわう大イベントです。
西堀橋と蓮
蓮は「東洋一の蓮」と表現される。7、8月に「高田城址公園観蓮会(かんれんかい)」(旧称「上越はすまつり」)が行われる。ちょっとしたイベントがあり。蓮が咲くのは外堀で、お堀を埋め尽くすように蓮の葉でいっぱいになる。
2020年(令和2)まで「高田城址公園」は長年「高田公園」の名称でしたが、熱心な団体の運動によって変更された。
上越
昭和46年、高田市と直江津市が合併して上越市誕生
合併促進パレード
1954年(昭和29)直江津町は直江津市となる。高田市は直江津が国府であった流れを汲んでできたまちであり、両市は親子のような兄弟のような関係で、昔から合併の話はあったが、地域感情で長く対立が続いた。
上越市市章

1978年(昭和53)上越教育大学が開学。
1983年(昭和58) 北陸自動車道が延伸開通し上越IC(インターチェンジ)が開業。

平成合併後の新潟県の市町村

平成17年の大合併
平成17年合併前上越市と13の地域自治区
1997年(平成9)上信越自動車道が延伸開通し、上越高田ICが開業。
同年、北越急行ほくほく線が開業。これにより上越市民は直江津駅ー越後湯沢駅ー(新幹線)ー東京駅というルートで東京に行くのが一般的になった。(2015年の北陸新幹線開通まで)
2005年(平成17)平成の大合併で上越市は、周辺13を編入合併。 市域面積が約4倍に増大し広域都市となる。面積は、村上市に次ぐ新潟県第二位。全国24位。<編入合併した13町村>東頸城郡 安塚町・浦川原村・大島村・牧村/中頸城郡 板倉町・大潟町・柿崎町・清里村・頸城村・中郷村・三和村・吉川町/西頸城郡 名立町

2005年(平成17)平成の大合併時の人口は約21万人。新潟市、長岡市も大合併して、それらに次ぐ新潟県第三の都市であるのは変わらなかった。しかし人口の減少がいちじるしく、合併以降は年間1000人前後の減少が継続した。

2012年(平成24) 上越火力発電所が営業運転を開始。



平成27年、北陸新幹線上越妙高駅が開業
上越妙高駅
2015年(平成27)3月北陸新幹線の上越妙高駅開業し、新たな玄関口となりました。駅は上越市大和(やまと)にあるが、隣の妙高市を配慮してJRが決めた駅名らしい。新幹線は開通したが、観光の誘致はまだまだこれからである。
北陸新幹線路線図

2021年(令和3)5月1日時点では人口18万8千人余り。

付録

上越市の地理統計など

上越市の人口は新潟県内で3位 新潟市:約77万4千人 長岡市:約26万人 上越市:約18万2千人

上越市の人口は平成の大合併から激減 平成17年(2005)の大合併のとき人口21万人余りだった。その時点では県内2位だった。令和5年(2023)1月1日現在、18万2千人余り。約20年で、人口は3万人ほど減った。

上越市の面積は新潟県内で2位 上越市の面積は 973.81km² 。村上市1,174.26km²に次ぐ第2位。3位は阿賀町(東蒲原郡)952.89km² 4位:魚沼市、5位:長岡市、6位:佐渡市、7位:糸魚川市、8位:新潟市と続く。令和5年(2023)1月1日時点

上越市の面積は東京23区の1.5倍以上 上越市の面積は973.81km²なので、東京23区(619 km²)の1.5倍以上。大阪府全体(1,899 km²)の半分以上に相当する。

上越インターは新潟中央と富山の真ん中に位置する 【北陸道・上越インターとの距離】*ドラぷら(NEXCO東日本)で検索

北陸道・新潟インター方面 米山29.3km 柏崎41.2km 長岡(関越道)67.1km*長岡インターは関越道に位置。 中之島見附76.2km 三条燕91.5km 巻潟東101.8km 新潟西117.0km 新潟中央121.3km 

◆日本海東北自動車道 新潟県北部  新潟空港129.7km 聖籠新発田146.2km 村上瀬波温泉178.2km ◆北陸道・富山インター方面 糸魚川43.9km 富山121.7km*新潟中央とほぼ同距離。 金沢東175.6km*村上瀬波温泉とほぼ同距離。

上越市から一番近い県庁所在地は長野市【上信越道・上越高田インターとの距離】

須坂長野東74.3km 長野84.2km 練馬(関越道)277.4km

上越地区の面積は東京都とほぼ同じ。上越市:973.81km² 糸魚川市:746.2 km² 妙高市:445.6 km²で合計2165.61km²。東京都全体が2,194 km²で、ほぼ同じ。

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上越市合併略年表
1871年(明治4年) 廃藩置県により高田藩は高田県となる。高田県は柏崎県に編入される。
1873年(明治6年) 柏崎県が新潟県に編入される。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い旧高田城下町人町の中頸城郡高田下紺屋町、高田下小町、高田横町、高田呉服町、高田上小町、高田中小町、高田上職人町など多数の町が合併し、高田町が発足。
4月1日 - 町村制施行に伴い中頸城郡直江津町、高崎新田、塩谷新田村、砂山村、八幡村、至徳寺村、安国寺村、轟木村、春日新田(一部)が合併し、直江津町(なおえつまち)が発足。
1908年(明治41年)11月1日 - 中頸城郡高城村と合併し、高田町を新設。
1911年(明治44年)9月1日 - 高田町から市制施行して高田市となり中頸城郡から離脱。
1954年(昭和29年)4月1日 - 中頸城郡新道村、金谷村を編入。
1954年(昭和29年)6月1日 - 直江津町が中頸城郡八千浦村、有田村、諏訪村の一部、保倉村を編入し、市制施行して直江津市となる。
1955年(昭和30年)2月1日 -高田市が中頸城郡春日村、諏訪村、津有村、三郷村、和田村(一部)を編入。
1971年(昭和46年)4月29日 - 高田市と直江津市が新設合併し、上越市が発足する。
2005年(平成17年)1月1日 - 東頸城郡安塚町・浦川原村・大島村・牧村・中頸城郡板倉町・大潟町・柿崎町・清里村・頸城村・中郷村・三和村・吉川町・西頸城郡名立町を編入合
併する。
2007年(平成19年)4月1日 - 特例市に移行する。


合併で住居表示から消えた高田と直江津の地名
高田と直江津の地名は、1971年(昭和46年)の合併により現在の住居表示(住所表記)からはほぼ消えてしまいました。
例えば、高田市本町1丁目は「上越市本町1丁目」となって、高田の二字は無くなった。高田市の町名が高田本町のように高田が付いていれば、上越市高田本町1丁目になっていたが、昭和初期の町名改正でシンプルな町名になっていた。直江津も同様です。
なお、わずかに残るのは、直江津港の一部が「直江津(大字)」であるのと、高田地区の「南高田町」。

合併でしっくりこない住居表示に
合併後、高田地区には、上越市本町・東本町・南本町・北本町があって、直江津地区に離れて上越市西本町がある。かつて直江津市本町があって、そのままだと「上越市本町」が二つ存在するので苦肉の策で町名を変更したのでした。しかし遠くはなれて西本町は、なんとも不自然です。
高田地区には上越市栄町(さかえまち)、直江津地区には上越市栄町(さかえちょう)があり、なんとも紛らわしい。
高田地区には上越市寺町があり、高田郊外の和田地区に上越市大字寺町がある。大字(おおあざ)で区別。
また、高田城があった高田市本城町(もとしろちょう)は上越市本城町となった。この例だと、あたかも「上越城」があったかのような住所表記になってしまった。
このように、合併で「高田」「直江津」が消えてしまった住所表記はしっくりこない。

合併後使われる「地区」と地域自治区の「区」
1971年(昭和46年)の合併後は、新聞などの報道では、「高田地区」「直江津地区」を用いて、今なお使われている。
旧高田市の市域は高田地区のほか、金谷地区、三郷地区、和田地区、新道地区、春日地区、諏訪地区、津有地区、高士地区がある。
旧直江津市の市域は直江津地区のほか、有田地区、八千浦地区、保倉地区、北諏訪地区、谷浜地区、桑取地区がある。

ところが平成の大合併後の2009年(平成21)10月、昭和の大合併以前の市町村区域に基づく15区が新設された。この旧市域15区の地名・町名の表記(住居表示)には自治区名を冠さない。
15区は以下の通り。
高田区(旧高田市)、金谷区(旧金谷村)、三郷区(旧三郷村)、和田区(旧和田村)、新道区(旧新道村)、春日区(旧春日村)、諏訪区(旧諏訪村南部)、津有区(旧津有村)、高士区(旧高士村)直江津区(旧直江津市)、有田区(旧有田村)、八千浦区(旧八千浦村)、保倉区(旧保倉村)、北諏訪区(旧諏訪村北部)、谷浜・桑取区(旧谷浜村・桑取村)
地域自治区の出現で「地区」の表現が消えたわけではない。地区と区の言葉があることになり、例えば「春日地区」と「春日区」でどう違うのか、明確でない。
住居表示にない「区」を用いるのには抵抗があって、このページでは高田地区、直江津地区など「地区」を用いるようにしている。

高田・直江津の地名を意識する駅の存在
日本人は駅名をその一帯の地名のように会話に用います。高田駅と直江津駅が今なお存在しているから、上越市民には「高田」「直江津」の地名は消えた感じはしない。なので、えちごトキめき鉄道(元は国鉄~JR)の存在意義は大きい。
おとなり妙高市の旧新井市も同様で、「新井」も合併で住居表示(住所表記)からは消えてしまいました。新井駅の存在が新井の地名を意識させています。
しかし、トキ鉄が経営を維持できなくなり、これらの駅が無くなってしまったら、そうした意識も薄れてしまうのでしょうか。









上越市関連キーワード

高田地区の名所 高田世界館(最古級映画館/本町通り)、高田城址公園(日本三大夜桜、東洋一の蓮)
高田地区の観光施設 上越市立歴史博物館、小林古径記念美術館、
高田本町商店街の美術関係の店・施設 アートサロン遊心堂、大島画廊、ギャラリー祥
ミュゼ雪小町(あすとぴあ5階)、町家交流館高田小町
高田本町商店街の飲食店 軍ちゃん(海鮮料理)、藤作(和ダイニング、和会席)、鶴越(さぬきうどん)、初音(定食他)、澤田そば屋(定食他)
高田本町商店街の付近の飲食店 宝来軒総本店(老舗ラーメン店)、富寿し高田駅前店(老舗すし店)、七福食堂(老舗食堂、オムライス他)、天ぷら若杉(老舗)、
高田本町商店街の喫茶店 パティスリー・フルール(喫茶・ケーキ販売)、シティーライト(老舗喫茶店)
高田本町商店街の菓子店 大杉屋(老舗菓子店)本店(本町5)お馬出し店(本町3)、かの子(老舗菓子店)
高田地区のイベント レルヒ祭(2月、金谷山)、高田城址公園観桜会(4月)、上越まつり(7月、高田本町商店街ほか)、上越はすまつり(7-8月、高田城址公園)、越後・謙信SAKEまつり(10月、本町通りで歩行者天国)

高田藩 松平忠輝(徳川家康六男、初代高田城主)、松平光長、越後騒動、榊原家
高田の軍隊と自衛隊 帝国陸軍第13師団、軍都高田、長岡外史師団長、蒋介石(留学生)、自衛隊高田駐屯地(高田自衛隊)、
高田の日本スキー発祥 日本スキー発祥の地金谷山(かなやさん、高田郊外)、長岡外史師団長、レルヒ、磯野霊山
高田の大雪 この下に高田あり、豪雪、雁木、
高田地区ゆかりの人物 前島密(郵便事業創始者)、高田瞽女、楊洲周延、牧野虎雄、会津八一、相馬御風、堀口大学、濱谷浩、齋藤三郎(陶芸家)、斎藤真一、富岡惣一郎

春日山 謙信公祭(8月)、春日山駅、春日山城跡、上杉謙信(長尾景虎)、謙信公祭、天と地と、川中島の戦い、義の武将、敵に塩を送る、林泉寺、上杉景勝、直江兼続、御館の乱、天地人/
直江津 直江津祇園祭(7月、上越まつりの後半部分)、直江津駅、直江津港、直江津海岸、なおえつ海水浴場、上越市立水族博物館うみがたり、新潟県鉄道発祥の地/越後国府、越後府中、親鸞聖人、安寿と厨子王丸、山椒大夫、五智国分寺、越後福島城、堀秀治、直江津今町

    上越市郊外の美術館 樹下美術館(頸城区、犀潟駅南)
    上越市の食文化 笹団子、翁飴、粟飴、出陣餅、川渡もち、岩の原ワイン、笹だんごパン、雪むろ酒かすラーメン、のどぐろ、幻魚、日本酒(スキー正宗、雪中梅、かたふね、吟田川、君の井、千代の光・・・)、えちご上越米(コシヒカリ、新之助、みずほの輝き・・・)
    上越市の地理 新潟県上越地方、高田市、直江津市、越後国、頚城郡、上越後、高田平野、直江津駅、春日山駅、高田駅、上越妙高駅
    上越市のマスコミ 新潟日報、JCV上越ケーブルビジョン、上越タイムス、上越よみうり、上越タウンジャーナル、上越観光ネット(上越観光コンベンション協会)、

    妙高市(上越市の南に隣接) 妙高山/旧中頚城郡妙高高原町、赤倉温泉、岡倉天心終焉の地、小杉放庵、郷倉千靭/旧中頚城郡妙高村、関温泉、燕温泉/旧新井市、新井宿、新井駅、森蘭斎、とん汁ラーメン/
    糸魚川市(上越市の西に隣接) 糸魚川藩、糸魚川駅、糸魚川ジオパーク、姫川、ヒスイ、奴奈川姫、相馬御風/旧西頚城郡能生町、 能生川、能生谷、能生駅、能生漁港、シャルマン火打スキー場、県立海洋高校相撲部、大の里、筒石漁港、筒石駅/旧西頚城郡青海町、青海川、青海駅、デンカ、親不知・子不知海岸、市振の関、黒姫山(日本三百名山)/
    柏崎市(上越市の東に隣接) 柏崎港、柏崎駅、柏崎刈羽原発、米山、鯨波海水浴場、木村茶道美術館、大久保鋳物/旧刈羽郡西山町、西山油田、田中角栄/旧刈羽郡高柳町、高柳じょんのび村/

    新潟県の日本一いろいろ
    2022年現在 新潟日報 ふむふむより *数字略
    <日本一○○なもの>日本一長い川 信濃川/日本一小さな山脈 櫛形山脈 新発田市と胎内市/日本一深い穴(自然にできた) 白蓮洞(びゃくれんどう)糸魚川市/日本一長い雁木(総延長)上越市/日本一大きい花火(世界最大級)4尺玉 小千谷市の片貝花火
    <農業分野の日本一>の産出額/枝豆の作付面積/ユリ(切り花)の作付面積/錦鯉の養殖業者数
    <産業分野の日本一>米菓(せんべい、おかきなど)の出荷額/水産練り製品(かまぼこなど)の出荷額/金属洋食器の出荷額/原油の出荷額
    <新潟市の日本一>新潟市の中華そば(ラーメンなど)の外食費
    <数の日本一>ハクチョウ類の飛来数/新幹線の駅数 7駅/神社の数(宗教法人数)
    <子どもに関する日本一>むし歯の少なさ/中学男子卓球部員数