【わがまち上越市とは】新潟県上越市を歴史と観光の観点から紹介|直江津.春日山城.上杉謙信.高田城址公園

【わがまち上越市とは】 
新潟県上越市(じょうえつし)の歴史と観光の観点からのごく簡単なご紹介です。
上越市は複雑な歴史があるまちですが、なるべく簡略化してご紹介します。
*スマホ画面だと横向きのほうが見やすいとおもいます。


上越市の地理とおもな地名
上越市は新潟県の南西部、上越地方にあり、高田平野が広がります。
昔上越地方を頚城郡(くびきぐん)と言ったので、高田平野を頚城平野またはくびき野とも言います。


北は日本海を臨み、東西は山が連なり、背後の南には妙高山(みょうこうさん/隣の妙高市の山)を望みます。
東の新潟市まで129km、西の富山市まで131km、南の長野市まで63kmの場所に位置します。
すなわち新潟市と富山市のほぼ真ん中に位置して、県庁所在地では長野市が一番近いのです。

おもな地名は、直江津(なおえつ)、春日山(かすがやま)、高田(たかだ)です。
これは旧国鉄時代から駅名になっており、JR時代を経て現在はえちごトキめき鉄道の駅名です。


越後国府のまち・親鸞聖人が住んだまち直江津
直江津港は古くからの港で、現在は大きな船が入る港です。
直江津は歴史の古い港まちで、越後国府でした。越後の都であり、今でいうと県庁所在地です。
今も「国府」の地名は残っています。

1207年(承元元)浄土真宗の開祖親鸞聖人(しんらんしょうにん)は35歳の頃、念仏弾圧で越後国府に流されてきました。
直江津海岸の西にある居多ヶ浜(こたがはま)が親鸞聖人上陸の地です。
最初に住んだのは五智国分寺(ごちこくぶんじ)の境内といいます。
その後今の本願寺国府別院(旧称小丸山別院/西本願寺の別院)の場所に移り住みました。
越後には5年ほど住んでその間、恵信尼(えしんに)と結婚しました。
流罪が赦免された親鸞聖人は、関東へ向かわれます。



また、国府の名残りが五智国分寺です。
室町時代(戦国時代)に上杉謙信が奈良時代の「越後国分寺」を五智の地に再建したものといいます。
古い三重塔が残りますが、奈良時代のものではなく、謙信の時代のものです。


海水浴と水族館の直江津



直江津海岸、郷津海岸は、夏にはなおえつ海水浴場と総称される海水浴やキャンプのスポットです。

夏には内陸の長野県方面からの海水浴客が多く訪れるので、「長野の海」のように言われます。
直江津海岸の前には上越市立水族博物館「うみがたり」があります。





春日山城主上杉謙信と栄えた直江津



1548年(天文17)上杉謙信春日山城の城主となります。
春日山城からは離れていますが、やはり直江津駅付近が大きなまちでした。
府中(ふちゅう)や府内(ふない)と言い、ともに国府と同じような意味です。
謙信公の登場で直江津地区は全国有数のまちになり栄えました。
謙信公の時代が上越市の全盛期です。









「天と地と」と「天地人」
上杉謙信の生涯を描きNHK大河ドラマや角川映画になった小説は海音寺潮五郎の「天と地と」です。
大河ドラマをきっかけに、春日山はだいぶ整備が進んだようです。

上杉景勝の家老・直江兼続(なおえ・かねつぐ)の生涯を描きNHK大河ドラマになった小説は火坂雅志の「天地人(てんちじん)」です。
謙信公亡きあとを継いだ景勝は豊臣秀吉に従いますが、会津に国替(くにがえ)を命じられて、上杉家は上越から去ってしまいます。
のちに徳川家康によって、上杉家は米沢(よねざわ/山形県)に国替になります。
戦国大名の子孫の多くが断絶したり、無名化したようですが、米沢藩の上杉家は江戸時代を通じて存続しました。






直江津の福島城 続いていれば・・・
1598年(慶長3)上杉家が去って豊臣秀吉の家臣の堀秀治が春日山城に入ります。
すると直江津に福島城(福嶋城、越後福島城)を築城を開始します。
しかし完成前に秀治は急死してしまいます。


1607年(慶長12)12歳の子堀忠俊が入城して、春日山城は廃城になってしまいます。
府中や府内と呼ばれた直江津駅付近から、福島城下に多くの人が移ったといいます。
福島城の場所は「直江津港佐渡汽船フェリーのりば」に近い古城(ふるしろ)小学校の辺りで、石碑があります。
今は港町(みなとちょう)ですが、昔はこの一帯を「福島」と呼んだのでしょう。
今もやや離れて「西福島」の地名が残ります。










1610年(慶長15)徳川家康の時代になると、お家騒動を理由に堀家は改易されます。忠俊の居城はわずか3年でした。
同年、家康の六男松平忠輝が福島城に入ります。
しかし1614年に高田城を築いて移り、福島城は廃城となってしまいました。
直江津の福島城は7年ほどの短命なお城でした。
福島城のまま江戸時代も続いていれば、のちの直江津と高田の対立も無く、雪は高田より少ないので、もっと地域が発展していたかもしれません。


直江津から高田へ移転、高田開府

1614年(慶長19)徳川家康の六男松平忠輝高田城を築き初代城主となりました。江戸時代続く高田藩のはじまり、高田開府です。




古くから直江津地区が越後国府、越後の都でしたが、高田にその機能を移転することになりました。
福島城下(上越市港町)から町人やお寺が多数移ったといいます。高田は越後の都として発展するはずでした。

1616年(元和2)しかし、なぜか松平忠輝は改易(かいえき)されました。入城してわずか2年のことです。
越後は中小の藩が分立することになりました。高田は越後の都ではなくなりました。


1624年(寛永1)越前から来た松平光長が高田城主になり、御三家に次ぐ四家の地位で高田藩は復活しました。
ところが、1681年(天和1)光長は60年近くも在位しながら、「越後騒動」といわれたお家騒動を理由に改易されてしまいました。
これで高田は転落しました。以後高田は並の藩になりました。
その後も高田城主は相次いで国替を命じられます。


榊原家で廃藩までつづいた高田藩
謙信公の没後、上越の地で城主になる家は長く続きませんでした。
改易されたり、国替で去ってしまいました。
1741年(寛保1)ようやく榊原家(さかきばら-け)が高田城主となりました。

江戸時代半ばから廃藩まで六代続きました。石高は十五万石でした。
高田城址公園の外堀向いには、榊原家をまつる榊神社(さかきじんじゃ)があります。





大日本帝国陸軍第13師団の軍都高田
スキーの先駆者長岡外史の旧師団長官舎
1908年(明治41) 大日本帝国陸軍第13師団(だいじゅうさんしだん)が高田に入城。高田を語るうえで欠かせないのが陸軍のことです。



廃藩置県後に高田は衰退したため、町人の高田町が誘致運動を行い師団が設置されました。
高田に入城というのは、高田城址に入ったからです。
師団設置が無ければ、その後の高田はもっと寂れたものになっていたでしょう。
残念ながら、高田城址公園で13師団の面影をとどめるものはレンガ門くらいです。

同年、町人の高田町と武士の高城村が合併し、新たな高田町が誕生。これは1月1日のことで、師団の入城開始に合わせたものです。
1911年(明治44)市政を施行して高田市となる。

師団長の長岡外史(がいし)がスキーの指導をレルヒに依頼したので、金谷山で日本スキーが発祥しました。
長岡外史(1856年~1933年)は「日本の航空とスキーの先駆者」と評価された軍人・政治家で、出身地山口県下松市にはその名の「外史公園」があるほどです。
外史の長いヒゲの長さは約70㎝もあり、「プロペラひげ」とも呼ばれていました。













1910年(明治43)に師団長の長岡外史中将の邸宅として建てられた和洋折衷の木造建築が
旧師団長官舎です。長岡外史のブロンズ像があります。旧師団長官舎は、南城町の高田高校のとなりにあったのを1993年(平成5)に市が現在地に移築しました。

2021年(令和3)4月、旧師団長官舎をまちのにぎわいづくりに役立てようと、1階にフレンチレストランとカフェをつくり「レストランエリス」がオープンしました。


桜とハスの名所・高田城址公園

城あとの高田城址(じょうし)公園 は桜(サクラ)蓮(ハス)のお花見の名所です。
夜桜の名所で「日本三大夜桜」と言われます。
4月お花見の「高田城址公園観桜会」(旧称「高田城百万人観桜会」)は多くの露店が出店し、通常は百万人の人でにぎわう大イベントです。

蓮は「東洋一の蓮」と言われます。7、8月に「高田城址公園観蓮会(かんれんかい)」(旧称「上越はすまつり」)が行われます。ちょっとしたイベントがあります。蓮が咲くのは外堀で、お堀を埋め尽くすように蓮の葉でいっぱいになります。

2020年(令和2)まで「高田城址公園」は長年「高田公園」の名称でしたが、熱心な団体の運動によって変更されました。




高田本町商店街 本町通り
高田本町商店街は、江戸時代から高田城下町の町人のまちでした。
えちごトキめき鉄道の高田駅と高田城址公園の間に位置します。
自動車が普及していない時代は大変なにぎわいでした。
近年は往年のにぎわいはありませんが、お花見や本町通りのイベントでは、多くの人が集まります。
大好評の酒まつりが行われるのは、この本町通りです。




日本スキー発祥地・高田の金谷山
ゆるキャラレルヒさん
上越市の気候は、夏は蒸し暑く、冬は雨が多くて冷えると雪となります。高田は昔から大雪の城下町として知られました。
1911年(明治44)オーストリアの軍人・レルヒ金谷山(かなやさん)において、日本で初めてとなるスキー指導を行いました。

これは高田の陸軍の長岡外史師団長がレルヒに将校への指導を依頼して、高田郊外の金谷山でスキーをはじめたものです。
上越市の金谷山は日本スキー発祥の地に認定されています。
金谷山には日本スキー発祥記念館やレルヒ像、石碑があります。
金谷山は高田市になったこともあり、昔は「高田の金谷山」と言われていたようです。

 

レルヒをキャラクターにした「レルヒさん」は新潟県のゆるキャラです。レルヒさんの着ぐるみは県内各地のスキー場などで活躍しています。






高田市と直江津市
明治時代になり小さい町が多数存在し、それらが徐々に合併する時代になります。
高田は高田町となります。直江津は直江津町となります。


1911年(明治44)高田町は高田市となります。
1954年(昭和29)直江津町は直江津市となりました。
高田は直江津が国府であった流れを汲んでできたまちであり、両市は親子のような兄弟のような関係で、昔から合併の話はあったようですが、地域感情で長く対立が続きました。


昭和46年、上越市誕生
1971年(昭和46)高田市と直江津市がようやく対等合併し上越市が誕生しました。
合併前時点での両市の人口は、高田市が約7.5万人、直江津市が約4.5万人。
双方の中心部のほぼ中間点に位置する旧高田市北部の春日地区の木田に上越市役所を新築しました。


1978年(昭和53)上越教育大学が開学。
1983年(昭和58) 北陸自動車道が延伸開通し上越IC(インターチェンジ)が開業。
1997年(平成9)上信越自動車道が延伸開通し、上越高田ICが開業。
1997年(平成9)北越急行ほくほく線が開業。上越市民は直江津駅ー越後湯沢駅で新幹線乗り換えー東京駅というルートで、東京に行くのが一般的になりました。2015年(平成27年)北陸新幹線が開業するまでそうでした。




平成の大合併 人口減少
2005年(平成17)平成の大合併で上越市は、周辺13を編入合併。 
市域面積が約4倍に増大し広域都市となりました。
面積は、村上市に次ぐ新潟県第二位。全国24位。

<編入合併した13町村>東頸城郡 安塚町・浦川原村・大島村・牧村/中頸城郡 板倉町・大潟町・柿崎町・清里村・頸城村・中郷村・三和村・吉川町/西頸城郡 名立町

2005年(平成17)平成の大合併時の人口は約21万人。
新潟市、長岡市に次ぐ新潟県第三の都市。
しかし人口の減少がいちじるしく、合併以降は年間1000人前後の減少が継続しています。2021年(令和3)5月1日時点では人口18万8千人余りとなっています。

2012年(平成24) 上越火力発電所が営業運転を開始。


北陸新幹線上越妙高駅
2015年(平成27)3月北陸新幹線の上越妙高駅開業し、新たな玄関口となりました。
駅は上越市大和(やまと)にありますが、お隣の妙高市のことも配慮してJRが決めた駅名らしいです。
新幹線は開通しましたが、観光の誘致はまだまだこれからといえましょう。

おわり