遊心堂【茶の湯愛好会】の場面集|茶席、講座

遊心堂【茶の湯愛好会】の場面を1ページにまとめた場面集です。会場は遊心堂北城店で、お茶席、講座などの場面です。

2009年








2008年








2006年






2005年






2004年









2002年











【新潟県上越地方の茶道流儀・茶人・茶道会 メモ】

不白流(高田伝来の不白流、梅翁系不白流)

梅翁不白(ばいおうふはく、川上不白)
初代川上不白の孫。 川上不白三世を称す。

指心斎(ししんさい)
梅翁不白の子。

荒井宗二(そうに、「そうじ」とも)
高田藩主榊原家の茶頭。指心斎の弟子。梅翁不白の弟子で高田藩主榊原家の茶頭。
明治時代に高田に住み、直江津、柏崎、新潟でも指導した。父も宗二と名のったらしく、父が初代なら二代ということになる。だが、通常荒井宗二というとこの人のことをいう。


三上宗心(そうしん)
高田の不白流茶人。荒井宗二から家元格を継承。明治大正の上越では大茶人。高田関町(南本町)に住む。

清水宗観(そうかん)
高田新田の不白流茶人。三上宗心から家元格を継承。昭和19年没す。 大正から昭和戦前の上越では大茶人。多くの弟子を指導。社中に遊心堂加藤良作(若いとき)。

荻野宗次(おぎの・そうじ)*表千家の項にも掲載
直江津の茶人。不白流のち表千家。いかや旅館主人。昭和19年、師の清水宗観から不白流の家元格を継承する。だが、まもなく三上ハツに譲る。表千家直門となり、流儀を変えた。

三上ハツ
高田の不白流茶人。荻野宗次から家元格を継承。家元格をした三上宗心の子・房吉の嫁。
宗次との論議で三上家に 家元格を戻した。昭和24年、家元格の継承をしないまま没す。
そのため高田伝来の不白流は絶えてしまうことになる。



江戸千家

濱谷宗朝(はまや・そうちょう)
高田にいた江戸千家茶人。写真家濱谷浩の妻。濱谷疎開中に堀口大学の仲人で結婚。
茶室の「寸雪庵(すんせつあん)」も堀口大学の命名。江戸千家家元の直門。
高田大手町の自宅を「江戸千家新潟県支部」と認められた。濱谷宅には茶人ほか、多くの文化人が出入りした。昭和27年大磯に去る。新潟市出身。社中に小川草雪、青木俊雪、岡村信雪。

小川草雪(そうせつ、本名・ハツ) 
高田の江戸千家茶人。濱谷宗朝の弟子。夫は高田本町の小川紙店主人。高田不白会の初代支部長をつとめる。

小川紫雪(しせつ、本名・幸子) 
高田の江戸千家茶人。小川草雪の娘。はじめ不白流三上ハツに学ぶ。 母小川草雪のあと高田不白会の支部長をつとめる。


表千家

荻野宗次(おぎの・そうじ) *不白流の項にも掲載
直江津の茶人。不白流のち表千家。いかや旅館主人。昭和19年、師の清水宗観から不白流の家元格を継承する。だが、まもなく三上ハツに譲る。表千家直門となり、流儀を変えた。自身の直江津駅前のいかや旅館で多くの弟子を指導した。吉田夫妻とともに「表千家同門会新潟県支部」発足に尽くす。社中に遊心堂加藤良作(不白流清水宗観没後、宗次の社中となった)、直江津の泉蔵院石田、高田大町の骨董商井田、高田の刀剣商掛川、直江津の観音寺日馬(くさま)など男性茶人。

吉田宗喜そうき、本名・喜代子)
高田の表千家茶人。吉田宗石助教授夫人。戦前に京都の高見文絵宗匠に学ぶ。戦後に堀内兼中斎宗匠に入門。夫の吉田宗石と西城町に住み、昭和28年から表千家の茶道を指導した。社中の集まりを「知足会(ちそくかい)」と名づけた。糸魚川でも指導。「高田茶道会」発足に尽くす。「表千家同門会新潟県支部」発足に尽くす。夫吉田宗石の退職にともない神奈川県大和市に移住。平成に入り没す。社中に、香西宗英、藤巻宗久、森宗寿、山本宗和、室川宗登、笠原宗春、菅野宗春、田辺宗世、三浦宗秀、小池宗美ら。

吉田宗石(そうせき、本名・貞治=ていじ)
新潟大学高田分校助教授。吉田宗喜の夫。表千家茶人。古鏡、拓本の研究をした。数寄者であり、趣味の拓本を風炉先屏風に貼りこんだものがのこる。色紙、短冊もよく書いたし、茶杓ものこる。「表千家同門会新潟県支部」発足に尽くす。昭和末に没す。

吉田宗明(そうめい、本名・明子)
神奈川の表千家茶人。吉田宗喜の姪で養女。母宗喜の「知足会」を継いだ。平成に没す。

▼左が吉田宗石、中央が吉田宗喜、右が遊心堂加藤良作。ご夫婦で加藤良作宅によく来られた。    

裏千家

北條宗幽(ほうじょう・そうゆう、本名・裕宗)
高田の裏千家茶人。東本町の昭行寺住職。京都で松村宗真、飯田宗美に学ぶ。昭和戦後まもなく昭行寺で茶道を指導。  その後、直江津、旧新井市、長岡市などでも指導。高田別院で「淡裕会(たんゆうかい)」を発足。「裏千家淡交会新潟支部」が設立に尽くし幹事となる。「高田茶道会」発足に尽くす。平成に「上越茶道会」が設立し理事長となる。先代住職で父の北條義宗は日新流の華道を指導、頼浄(らいじょう)と号し南画もした人。

有沢宗衣(そうい、本名・初枝)
高田の裏千家茶人。有沢製作所の夫人。華道を北條義宗に、茶道を北條宗幽、京都の飯田宗美に学ぶ。「高田茶道会」発足に尽くす。東京に転居しても、東京と高田大町の自宅の両方で茶と花を指導。平成に没す。 社中に、宮沢宗宇、竹内宗志、松沢宗美、大塚宗寿、永井宗伊、有沢宗香ら。

▼有沢宗衣社中の裏千家茶人と加藤良作、木村秋雨ら<昭和三十三年 天心堂建立記念茶会 赤倉・無門荘(新野屋の別荘)> 

庸軒流(ようけんりゅう)

中田疎軒(そけん) 
庸軒流比喜多宗積派の五代家元。幕末の京都茶道界で活躍。高田の倉石南斎に茶を教えた。まれに自作の茶杓や棗に箱書きしたものを見る。

殿村洗心(とのむら・せんしん)
富山県泊の庸軒流茶人。庸軒流中田疎軒の系統。明治時代に糸魚川、直江津、高田を中心に指導。上越地方に庸軒流の茶を広めた茶人。頚城区百間町の瀧本家と旧新井市吉木の専念寺に数奇屋を造った。まれに自作の茶杓を見る。社中に糸魚川の井合庸所、池原思道ら。

川合清逸(せいいつ)
直江津今町の庸軒流茶人。幕末明治の人。庸軒流をし、教えを乞うものが多かったという。殿村洗心の流れを汲むと思われるが、師や弟子は不明。小林百哺(ひゃっぽ)に数学を学んだ。


薮内流(やぶのうちりゅう)
江戸後期に高田で藪内流の指導を受けたものがいる。薮内流は西本願寺に庇護されたので、その関係で伝わったと推測される。指導を受けた者は、旧家・森繁右衛門、名門・倉石家、三上支晴(不白流三上宗心の父)ら。


大日本茶道学会

高橋藤仙(とうせん、本名フジ)
直江津の大日本茶道学会茶人。三代会長・田中仙樵(せんしょう)の弟子。昭和戦前に茶道を指導した。直江津中央の自宅でしたほか、百間町や高田へ出げいこに行った。 後継者がなく、上越の大日本茶道学会は長らく途絶えた。

柳沼仙逸(せんいつ、本名いつ子)
旧牧村の大日本茶道学会茶人。昭和後期に長野県から移住してきて大日本茶道学会の茶道を指導した。 再び移住して牧村を去った。


石州流(せきしゅうりゅう)

小林朴風(ぼくふう、本名・茂)
高田の石州流茶人。寺町に住み、昭和後期から石州流怡渓派の茶道を指導した。



高田茶道会
昭和30年に発会。高田市の表千家の吉田宗喜と夫・吉田宗石、裏千家の北條宗幽と有沢宗衣、江戸千家の小川草雪と夫・小川喜次郎らを正会員としてはじまった。高田茶道会は茶事も参加者も多かったが、昭和48年に解散した。吉田夫妻が神奈川へ転出、有沢宗衣の上京などの理由による。   


上越茶道会
平成6年に発会。 北條宗幽(裏千家)が初代理事長。上越市周辺の表千家、裏千家、江戸千家、石州流、方円流(煎茶)の茶人らが理事、会員になり結成された。


上越市の主な大寄せ茶会会場

高田別院(高田区)  浄興寺(高田区) 榊神社(高田区)
やすね(高田区) 宇喜世(高田区) 旧師団長官舎(高田区)
小林古径邸(高田区) アートサロン遊心堂(高田区)
林泉寺(春日区) ワークパル上越(有田区)
ホテルセンチュリーイカヤ(直江津区)

*吉田夫妻は別ページでしたが、このページに挿入しました。
2019(令和元)年5月内容更新  遊心堂HP  遊心堂お店案内

【高田伝来の不白流から表千家への流儀替え、江戸千家の普及】新潟県上越市旧高田市直江津市ゆかりの茶道

【高田伝来の不白流から表千家への流儀替え、江戸千家の普及】

高田伝来の不白流 江戸から来た荒井宗二

かつて高田には、現在の江戸千家とは別系統の不白流(ふはくりゅう)が伝わった。 
川上不白三世を称する梅翁不白(ばいおうふはく)から、高田藩の茶頭(さどう)荒井宗二(そうに<じ>)へ伝わった不白流である。この不白流は正式名称は不明であり、当サイトでは「高田伝来の不白流」と称している。

荒井宗二は高田藩主榊原家の茶頭で江戸で仕えていたが、明治維新になると武士とともにその職を失うことになる。そのため明治からは茶の指導者として生活する。江戸東京から高田に来て住み、明治時代に高田、直江津など頚城郡各地、柏崎、長岡、新潟などで不白流を指導して多くの弟子を持った。

許状を出す指導者(家元格)は荒井宗二から、三上宗心(そうしん)―清水宗観(そうかん)―荻野宗次(おぎの・そうじ)―三上ハツと引き継がれたが、絶えてしまった。

なお、荒井宗二は父も同名を名のり初代であるが、父から高田藩主榊原家の茶頭であったという。高田に来たのは二代荒井宗二であるが、ここでは単に荒井宗二と記す。また、宗二は「そうに」は「そうじ」と読むのが普通と思うが、清水宗観の弟子である遊心堂加藤良作は「そうに」と呼んでいた。師の清水宗観らもそう呼んでいたからかもしれない。

三上宗心と清水宗観

この不白流は中央に家元がいなく、この地方だけのものだった。一番上の指導者はいわば「家元格」であり、指導し、許状を出した。

三上宗心(1844-大正8 享年75)は高田関町(南本町)の不白流茶人で、荒井宗二から家元格を継いだ人。明治大正の上越では大茶人で、弟子が多かった。はじめ宗心に師事していたが、宗心が亡くなると清水宗観についた者も多かったようだ。

清水宗観(そうかん/明治2ー昭和19 享年76)は高田新田の不白流茶人で、三上宗心から家元格を継いだ人。大正から戦前の上越では大茶人であった。遊心堂加藤良作は数多くいた弟子のひとりだった。柏崎に木村茶道美術館を開館した木村寒香庵も同門であった。

荻野宗次の流儀替え 高田伝来の不白流絶える

清水宗観は弟子の荻野宗次(おぎの・そうじ)に家元格を譲り、昭和19年没した。だがまもなく、宗次は同じ門下の三上ハツに家元格を譲った。宗観の前の家元格は、ハツの舅(しゅうと)三上宗心(そうしん)だったので、三上家に家元格を返すよう求められたものか。しかし三上ハツは、家元格を継承しないまま昭和24年亡くなった。そのためこの不白流は絶えてしまうことになる。

▼中央が荻野宗次、左が遊心堂加藤良作

荻野宗次は、この地方だけの不白流を続けることに葛藤(かっとう)し、表千家家元の門下となるに至った。このことで高田伝来の不白流が絶えるのが決定的になってしまった。
宗次は、自らの直江津のいかや旅館(のちホテルセンチュリーイカヤとなる)で表千家を指導した。加藤良作は社中となった。「いかやさんに稽古(けいこ)に通った」と言っていた。
荻野宗次と吉田夫妻が中心となった表千家同門会新潟県支部の発足(昭和38年)には、良作も協力した。

高田にあった川上不白の茶杓

▼川上不白写茶杓「末ノ松山(すえのまつやま)」加藤良作筒書・箱書 これの本歌は清水宗観が所持していた。

この茶杓は、川上不白作の「末の松山」を写したものである。加藤良作は、清水宗観がこの茶杓の本歌を所持していたことを箱書きしている。経緯あり弥生町江戸千家の所蔵となり、本に出ている。それを見せて、竹器師に作らせたものである。良作は「清水先生に習っていたのは“昔の不白流”だ」といい、流儀を表千家に変えたことをよく語った。この茶杓の出来(でき)は、どうこういうものではないが、さまざまな想いが詰まったものである。


濱谷宗朝が江戸千家を指導

濱谷宗朝(はまや・そうちょう/本名は朝=あさ)は高田で江戸千家を指導した茶人。高田に疎開した写真家濱谷浩の妻。大手町の濱谷宅には、茶室「寸雪庵(すんせつあん)」で宗朝の茶を学ぶ者や、濱谷浩と交流した多くの文化人が出入りした。宗朝は東京池之端の江戸千家家元の直門(じきもん)であり、濱谷宅は、「江戸千家新潟県支部」と認められて看板を掲げた。高田を去る前年、「離高惜別茶会」が行われた。昭和27年、濱谷夫妻は大磯に移った。高田に伝来した不白流は絶えたが、宗朝の指導は不白流の本流である江戸千家が普及するきっかけとなる。


小川草雪が江戸千家を普及

小川草雪(おがわ・そうせつ)は高田の江戸千家茶人で、高田不白会の初代支部長。
濱谷宗朝の弟子で、濱谷夫妻が高田を去ったあとを受け継いだ江戸千家の中心人物。高田本町の紙店夫人で多くの弟子に指導した。流派の会員を増やした功績が大きい。昭和36年、江戸千家不白会高田支部(高田不白会)を発足して初代支部長となった。

小川草雪は子供の頃は高田伝来の不白流・三上宗心に習い、宗心没後は清水宗観に習った。仕事や戦争でブランクがあって濱谷宗朝の弟子になったという。草雪が宗朝の弟子となり茶を始めたのは、子供の頃に茶道の経験があったことは大きい。また、江戸千家は不白流の本家であるから、あまり抵抗が無かったかもしれない。

地域に茶道を普及した荒井宗二

前述のとおり、高田伝来の不白流は家元格が居なくなって絶えてしまった。はじめ高田伝来の不白流を習った者も、荻野宗次らは表千家茶人となり、小川草雪は経緯あって江戸千家茶人になった。そのように高田伝来の不白流から表千家、江戸千家に流儀を替えた茶人が多くいたようである。荒井宗二が高田に伝えた不白流は絶えたが、地域に広く茶道を普及したという点においてその功績は大きい。


*濱谷宗朝は別ページでしたが、このページにまとめました。*一部修正、加筆をしました。
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