◆遊心堂会社概要◆

◆会社概要◆
【事業所名】  有限会社遊心堂(ゆうしんどう)
【事業内容】  美術品の小売・卸売を主とする古物商
【古物商許可証】新潟県公安委員会 461290000574
【創業】    加藤正作、大正2年(1913)4月10日古物商営業許可を取得
【二代目】   加藤良作
【会社設立】  昭和50年2月13日
【本店所在地】 新潟県上越市西城町3丁目11-9
代表取締役】 深田正明
【専務取締役】 加藤裕明  
【主店舗】   新潟県上越市本町4-1-6 アートサロン遊心堂
【所属組織】       
東京美術倶楽部(東京美術商協同組合)組合員
京都美術倶楽部(京都美術商協同組合)組合員
新潟県美術商組合 組合員 
上越商工会議所、高田法人会  
高田ロータリークラブ(故加藤良作、深田正明)

【過去のお店の事績と沿革】*高田市は昭和46年から上越市となる

1912(大正2)4月10日、加藤正作(しょうさく/30歳)が高田市本町2丁目福井商店(魚店)跡地(高田別院への入口)に住んでいた時、古物商許可証を取得。(創業)
1919(大正8)加藤正作が高田市本町3丁目長沢旅館の中に出店。「正美堂(しょうびどう)」と称す。 
1923(大正12)加藤正作が高田市本町4丁目清水食堂跡地の右隣(杉田味噌店の右手)に移転。
1949(昭和24)加藤正作が高田市本町2丁目リスドールと森平のあいだに移転。
1956(昭和31)6月20日、加藤良作(りょうさく)が高田市西城町3丁目で開店し屋号を「遊心堂」と称す。
1975(昭和50)2月13日、有限会社遊心堂を設立。加藤良作が社長、深田正明が専務。
1975(昭和50)7月1日、上越市本町4丁目上越大和4階に遊心堂ダイワ店を開店。
1998(平成10)5月10日、深田正明が社長に就任。
2010(平成22)4月25日、上越大和閉店に伴い、遊心堂ダイワ店が閉店。
2010(平成22)6月12日、上越市本町4丁目に旧ダイワ店を移転し「アートサロン遊心堂」と改称して開店。この年からギャラリー事業を開始し、作家展を行う。
2013(平成25)創業100年を迎える。
2023(令和5)創業110年を迎える。








所蔵品の鑑定・相続査定について

鑑定・相続査定について
★所蔵品の鑑定
ご自宅で所蔵、所持されている物がどういうものかを知りたい方のために、鑑定を行っておりますのでご相談ください。急にお持ちになっても対応できません。日時を相談のうえになります。
*現在、毎月実施していた「土曜お宝鑑定会」は、昨今多忙のために休止しております。

ご要望があれば個別に鑑定をしておりますのでご相談ください。急にお持ちになっても対応できません。日時を相談のうえになります。

#ご自身の物を売りたい方は、買い取りのページをごらんください。

★相続の査定をしております。ご自宅にある亡くなられた方の遺品を査定し、提出書類を作成します。ご相談ください。

◆遊心堂の変遷(社史)-お店のこれまで-◆

◆遊心堂の変遷(社史)-お店のこれまで-
正美堂ー遊心堂ー遊心堂ダイワ店ーアートサロン遊心堂

●加藤正作の骨董店―商人のまち高田本町で創業―

加藤正作(しょうさく)は、高田市(現上越市)の商人のまちである本町(ほんちょう)に生まれ住みました。大正2年(1913)に骨董商に必要な古物商鑑札を得ました。有限会社遊心堂では、これを創業年としています。大正8年に骨董店を始め、本町3、4丁目を何度か移転し、最後は本町2丁目に落ち着きました。屋号は、「加藤骨董店」と称した時代もありましたが、最後は「正美堂(しょうびどう)」としました。茶道具を主とした店でした。正美堂がその後の遊心堂の前身です。

●加藤良作が西城町に遊心堂を開店―高田本町を一時離れる―

正作の子・加藤良作(りょうさく)は、長年父のもとで働きました。昭和31年秋に、西城町(にししろちょう)3丁目に家を買い、そこに店を構えました。はじめは「高田加藤」といい商売をしましたが、屋号を考え「遊心堂」と名付けました。そのときすでに正作は病身で良作は自分のもとで面倒を見たので、正美堂が遊心堂と名を変えて移転した形になりました。正美堂は消滅したが、遊心堂にその精神は受け継がれました。西城町3丁目の西しろ店が現在もなお、有限会社遊心堂の本店所在地です。

▼遊心堂西しろ店。現在小売り営業はしていません。

看板を木村秋雨(しゅうう)和尚に書いてもらいました。昭和50年2月13日に会社設立。「有限会社遊心堂」となり、加藤良作が社長、娘婿の深田正明が専務となりました。これは、遊心堂ダイワ店開店に先がけて会社にしたのでした。
イレブンビルは、大和(だいわ、本社金沢市)がキーテナントになるということで建ったビルでした。株式会社イレブンビルの初代社長・来海(きまち)氏の誘いで、遊心堂は「専門店」として、イレブンビルとの契約でテナント出店をしました。

▼大和上越店 本町4丁目にあったデパート。ビル名はイレブンビル。昭和50年開店〜平成22年閉店

●上越大和に遊心堂ダイワ店が開店―古巣の高田本町へ戻る―

昭和50年(1975)7月、本町4丁目に大和上越店が開店すると同時に「遊心堂ダイワ店」が4階に開店しました。また古巣の本町で商売をすることになりました。

これまではもっぱら古物(こぶつ)を売買していましたが、新物(あらもの又はしんもの、新品)もあつかうようになりました。特に贈答品には包装紙が必要ということで、「遊心堂」のロゴは木村秋雨和尚に書いてもらい、包装紙の絵は高田の陶芸家・齋藤三郎氏に描いてもらいました。本店は西城町でダイワ店は支店でしたが、遊心堂の主店舗となって永くお客様に親しまれました。

▼遊心堂ロゴ 木村秋雨和尚書 
▼遊心堂包装紙 齋藤三郎画
  

加藤良作は昭和56年から4年間、新潟県美術商組合の初代組合長をつとめました。のちに有限会社遊心堂は東京美術倶楽部(東京美術商協同組合)の組合員となりました。良作の80歳での加入は異例のことでした。平成10年5月10日に深田正明が社長に就任し、社長を退いた加藤良作は会長となりました。深田正明は平成16年から2年間、新潟県美術商組合の会長を歴任しました。

●まちの活性化策のイレブンギャラリー―高田本町の衰退―

平成19年(2007)には遊心堂ダイワ店の通路をへだてたななめ隣りに「イレブンギャラリー」をオープンしました。イレブンビル(大和のビル)からの名称でした。

この頃には大和は集客力が衰退して、高田のまち自体が往年のにぎわいがなくなっていました。イレブンギャラリーは出店業者が撤退した場所で、そこをイレブンビル2代目・来海(きまち)社長との相談で、遊心堂が借り受けました。
大和の活性化、高田のまちの活性化のためということで、イレブンギャラリーでは商品販売のみならず、楽しんで見てもらう企画展や鑑定会を実施しました。

また、平成20年(2008)8月にはホームページとブログを開始しました。このころはインターネットの普及で、自社サイトがあるのが当然になりつつありました。

●大和撤退で35年親しまれた遊心堂ダイワ店も閉店へ―高田本町に衝撃―

平成21年(2009)、加藤正作の骨董店開店から90年を迎えました。同年4月には、イレブンギャラリーに刺激を受けて、となりに學be屋(まなびや)というカルチャースクールができました。来海社長の活性化策でした。
しかし同年10月、衝撃的な「大和撤退」が報じらました。その後イレブンビルから、キーテナントの大和が撤退すると、残る「専門店」と呼ばれた店だけでは、ビルの維持は無理だと告げられ、大和の撤退と同時に専門店も撤退するよう命じられました。
平成22年4月25日、大和上越店は閉店し、およそ35年続いた遊心堂ダイワ店もやむなく閉店しました。
大和の撤退は高田本町商店街にとっても衝撃の出来事でした。大和からの流れで集客がある店が少なくなかったのです。
※当時の写真遊心堂ダイワ店の光景を見る

▼大和上越店が閉店と同時に遊心堂ダイワ店も閉店。平成24年にはイレブンビルが解体された。



●本町通りにアートサロン遊心堂がオープン―高田本町で商売継続―

平成22年(2010)年6月12日、ダイワ店から移転した「アートサロン遊心堂」が本町4丁目の八十二銀行向かいにオープンしました。加藤正作が本町2丁目の路面店を閉めてからおよそ50年、半世紀ぶりの商店街路面店となりました。遊心堂お店案内

アートサロン遊心堂は本町4丁目に2010(平成22)年6月12日オープン

平成25年(2013)、加藤正作が古物商鑑札を取得してから100年を迎えました。当社ではこれを「創業100周年」としています。
また、同年には長崎屋跡地に「あすとぴあ高田」、大和跡地に「イレブンプラザ」がオープンしました。これで高田本町商店街はやや持ち直したようです。

「アートサロン遊心堂」の名称はマスコミやホームページ、ギャラリーブログを通じて浸透してきました。ただし、開店時は従来の遊心堂のロゴのみだったので、お店の入口上は遊心堂のみになっております。「アートサロン遊心堂」としたのはインターネット時代にあって、他の遊心堂との混同を避ける意味と、遊心堂ダイワ店の隣にあった「アートサロン」を継承したものです。上越大和4階にあった「アートサロン」は、大和主催で美術作家の個展などを開き、長年お客様に親しまれました。

2016年頃からSNSも活用しております。お客様からSNSで発信していただく場合、ハッシュタグ #アートサロン遊心堂 を入れて下さいますようお願いします。
令和2年(2020)で「アートサロン遊心堂」開店から10年になります。

アートサロン遊心堂HP>2020(令和2)年2月更新 有限会社遊心堂 加藤裕明

【郷土新潟県上越周辺ゆかりの美術作家メモ 書家画家ページ】上越市.旧高田市.旧直江津市

書家と画家で、新潟県上越地方周辺ゆかりの人物を何人か紹介しているページです。美術作家メモもくじページ  遊心堂お店案内
  
※書家、画家と言っても専業の人ばかりではない。趣味で書や画を描いた有名人が多く含まれる。これらの作品の形態はさまざまで、掛軸(たて幅や横幅)が多いが、額装のものもあるし、色紙もある。まれに屏風や扁額(へんがく、横長で高い所に掛ける)もある。

文中で、高田は上越市の旧高田市街地、直江津は上越市の旧直江津市街地のこと。

以下は、号または下の名前のあいうえお順     
 
山田愛山(あいざん)本名:辰治 上越市頚城区百間町の地主。上越軽便鉄道(現在の頸城自動車株式会社)に多額の出資。大竹謙治初代社長の兄。明治から昭和半ばの人。


十辺舎一九(じっへんしゃ・いっく)江戸の戯作者(げさくしゃ、通俗小説を書いた作家)。善光寺参りの際に高田に滞在し高橋飴屋が厚くもてなした。


小倉右馬(おぐら・うま)高田の教師で歌人。高田藩士の子。明治から昭和戦前の人。

樋口雲仙(ひぐち・うんせん)高田藩士で絵師。増田桂堂に学んだ。幕末明治の人。

釧雲泉(くしろ・うんぜん)肥前出身で、各地を旅した南画家。越後に来て一時、三条に住む。越後の各地を遍歴し、南画の門弟は、石川侃斎(かんさい、新潟)、上田旭山(村上)、倉石米山と倉石乾山の父子(高田)、行田八海(三条)など。長崎で学ぶ。江戸後期の人。


東洋越陳人(えっちんじん)五智の画家。上越市三和区旧野村出身。幕末から大正の人。

長岡外史(がいし)雅号:護堂 高田の十三師団の師団長を務めた軍人。レルヒ少佐に指導を頼み、日本スキー発祥をもたらした偉大な人物。漢詩の書を遺す。幕末から昭和戦前の人。


増田義一(ぎいち)雅号:奎城 上越市板倉区出身の実業家。出版社「実業之日本社」社長。明治から昭和戦後の人。

川合清(きよし)高田の大学教授で画家。新潟大学教授で高田分校で教え、のち上越教育大学教授となった。東京美術学校卒のち芸大助教授。中村岳陵に師事。

相馬御風(そうま・ぎょふう)糸魚川市の文人。短歌の歌人、校歌の作詞、良寛研究などに業績。旧高田市の高田中学から早稲田大学へ進み、東京で活動のち帰郷。明治から昭和戦後の人。



月岡玉瀞(ぎょくせい)稲田文子  高田の浄興寺の御裏(おうら、奥様)で画家。画家月岡耕魚の娘、月岡芳年の孫。父同様、能画(能を舞う人の絵)を描いた。昭和から平成に活躍。

吉田玉潤(ぎょくじゅん)高田の画家。川端玉章に学ぶ。明治大正の人で三十代半ばで早世。

坂口謹一郎(きんいちろう)高田出身の発酵学者で東大教授。「酒博士」と称される偉人で、世界的権威。文化勲章受賞。歌会始の召人(めしうど)をつとめたこともある。明治から平成を生きた長寿。

松山琴谷(きんこく)越後糸魚川の商人で画家。山水画を描いた。江戸後期の人。

東条琴台(きんだい)高田藩の藩校修道館の教官。亀田鵬斎に儒学を学ぶ。漢詩を多く遺す。幕末明治の人。
 
村山径(けい)柏崎市出身の画家。大正から昭和末の人。

滝本頸城(けいじょう)上越市頚城区の教員で書家。幕末から昭和戦前の人。

奎城(けいじょう)→増田義一(ますだ・ぎいち)

増田桂堂(けいどう)高田藩榊原家のお抱え絵師。椿椿山(つばき・ちんざん)に学ぶ。幕末明治の人。

三浦顕栄(けんえい)高田にあった新潟大学高田分校にいた教授で洋画家。

井部健斎(けんさい)上越市頚城区出身の教育者。高田藩校の教官を経て、百間町と高田で私塾を開いた。

倉石乾山(けんざん)高田城下町の豪商。上越市本町6丁目にあった「角の倉石家」主人。父・倉石米山とともに越後に来た南画家・釧雲泉(くしろ・うんぜん)に学ぶ。山水画が多い。幕末明治の人。倉石乾山、青木崑山、大滝石山の三人名声高く「頚城の三山」といわれた。

原本賢治(けんじ)高田の洋画家。東光会の新潟支部長。

石黒敬七(けいしち)柏崎市出身の柔道家。絵を描いた。時計などのコレクターで、とんちん館に遺される。

上杉謙信(けんしん)越後春日山城主で戦国大名。書状は貴重。
 
月岡耕魚(こうぎょ)はじめ、坂巻耕魚 東京の能画家。娘は、高田の浄興寺に嫁いだ稲田(月岡)玉瀞。月岡芳年は師匠であり、義父(母の再婚した夫)。明治初期から昭和初期の人。

小林古径(こけい)高田出身の画家で東京美術学校教授。有名画家で評価高い。文化勲章受賞。高田藩士の子で高田で生れるが幼時に東京に転居。 明治から昭和戦後の人。

吉田小五郎 柏崎市出身で慶應幼稚舎長を務めた人。花田屋吉田正太郎の弟。キリシタンなどの本を書いた。
青木崑山(こんざん)高田郊外の稲田の絵師。大肝煎(おおきもいり、庄屋を支配した村役人)だったが、やめて絵に専念した。彫刻、篆刻もした。尾張の匂田台嶺(まがた・たいれい)京都の谷口靄山に学ぶ。幕末明治の人。倉石乾山、青木崑山、大滝石山の三人名声高く「頚城の三山」といわれた。

千原三郎 柏崎市出身の洋画家。
 
棟方志功(むなかた・しこう)青森県出身の有名版画家。高田の陶芸家・齋藤三郎と親しく、若いころ高田で個展をしたことがある。疎開で富山県福光(現・南砺市)に住んだ。その関係で、齋藤三郎は福光で個展をした。

吉田十束(じっそく)高田出身の俳人。文化文政時代の人。

丸山尺蠖(しゃかく)上越市郊外の画家。水墨画を描いた。谷口靄山(あいざん)に学ぶ。幕末から大正の人。

小山松渓(しょうけい)高田藩士の子。蘭学者小山杉渓(さんけい)の養子。作例は山水画。幕末明治の人。

飯田松坡(しょうは)高田の絵師。稲田の青木崑山に学ぶ。仲町2(別院大門)に住んだ。幕末明治の人。

木村秋雨(しゅうう)高田郊外の旧三郷村下四ツ屋の禅僧。会津八一の書生を経験し、終生尊敬した。相馬御風の良寛研究を助けた盟友。「昭和の良寛」といわれる。毛筆は独自の書体。明治から昭和後期の人。糸魚川歴史民俗資料館、通称「相馬御風記念館」で業績が伝わる。

保阪蕉窓(しょうそう)高田郊外の旧津有村戸野目の大地主。作例は、山水画の掛軸。

吉田正太郎(しょうたろう)号:縹亭(ひょうてい)、黒船館 柏崎市の数寄者。呉服商「花田屋」主人。自宅書斎を「黒船館」と命名し様々なものを蒐集した。文明開化資料は「柏崎七大コレクション」のひとつとされる。柏崎の黒船館にそれらが収蔵される。版画家川上澄生と親交があった。“縹亭”の号は昭和に入ってからで、縹は“花田”、亭は“屋”を意味する。書や版画をした。明治から昭和半ばの人。
原松洲(しょうしゅう)越後柏崎出身の儒者で教師。書画をかいた。江戸後期の人。

市島春城(いちしま・しゅんじょう)本名:謙吉 新発田市出身で早稲田大創立に尽した人。初代の図書館長として功績大。豪農市島家の分家生まれ。高田新聞の主筆をつとめた。大隈重信のもと国会議員になるが病気で断念。幕末から昭和戦前の人。

五十嵐浚明(いからし・しゅんめい)越後新潟の画家。江戸中期の人。

横尾深林人(しんりんじん)横尾翠田とも、別号:南田、翠田、九思、深林子、本名は信次郎、信二郎とも  高田出身の画家。上京し児玉白洋、小坂芝田、小室翠雲らに学ぶ。明治から昭和後期の人。

 
川上澄生(すみお)横浜出身の版画家で祖父は高田藩士。

下村静四郎(せいしろう)直江津出身の洋画家。直江津港付近の絵を描いた。石井柏亭に学ぶ。明治から昭和の人。
大滝石山(せきざん)上越市頚城区西福島の画家。越後に来た南画家・釧雲泉(くしろ・うんぜん)に学ぶ。茶道にも優れた。幕末明治の人。倉石乾山、青木崑山、大滝石山の三人名声高く「頚城の三山」といわれた。
田雪峰(せっぽう)高田の骨董商。大町にあった骨董店は親しまれて客が多かった。仙田菱畝に絵を学ぶ。。

新井石禅(せきぜん)南魚沼市旧塩沢町の雲洞庵(うんとうあん)の住職をした禅僧。曹洞宗第11代管長、大本山総持寺貫主(かんじゅ、住職)、最乗寺(神奈川県)住職を歴任。雲洞庵には38歳から14年間在住。 新井石龍は養子。  *雲洞庵は幼少の上杉景勝と直江兼続が修行した名刹。

新井石龍(せきりゅう)南魚沼市旧塩沢町の雲洞庵(うんとうあん)住職。新井石禅の養子。明治から昭和後期の人。

石塚仙堂(せんどう)直江津の画家。上越市安塚区の旧小黒村、仙田家出身。直江津の石塚家の養子となる。仙田菱畝の兄。川合玉堂、石塚仙堂に学ぶ。

川上松岳(しょうがく) 四代川上善兵衛、別号:天瓢斉 高田郊外の旧高志村北方の地主川上家の養子。四代川上善兵衛。江戸後期の人。*ブドウ園経営の川上善兵衛はこの人の孫で、六代川上善兵衛。
 
富岡惣一郎(そういちろう)高田出身の洋画家。白黒の独自な画風「トミオカホワイト」で知られる。昭和から平成に活躍。


野奏風(そうふう)東京の画家。高田の稲田玉瀞の父・月岡耕魚に学ぶ。能画を描いた。高田に作品が多くのこる。


金子大栄(だいえい)高田出身の僧で大谷大学名誉教授。真宗大谷派(東本願寺)。明治から昭和戦後の人。

桑山太市朗(たいちろう)号:対地戯魚堂 柏崎市の数寄者。洋画画材店「戯魚堂」主人。戦後は柏崎駅前の郵便局長。蒐集した古書、古手紙は「戯魚堂文庫」と称され、図書館に遺される。「柏崎七大コレクション」のひとつ。明治から昭和後期の人。

仲田大二(なかた・だいじ)高田の教員で洋画科。上越市黒井出身。

倉石隆(たかし)高田出身の洋画家。

小田嶽夫(たけお)高田出身の芥川賞作家。高田に疎開。明治から昭和後期の人。

長尾為景(ためかげ)越後守護代。上杉謙信(長尾景虎)の父。

 
楊州周延(ようしゅう・ちかのぶ)橋本直義 高田藩士から浮世絵師に転身した人。江戸詰高田藩士で戊辰戦争で戦った。東京で浮世絵師となった。明治に錦絵(多色刷りの版画)が発行され大人気となる。 *お詫び:「楊」が手へんの「揚」になっていたのを訂正しました(中国の「揚州」とは違う)。 ご指摘いただいた方に敬意を表し感謝いたします。


長 竹軒(ちょう・ちくけん)高田のち直江津に住んだ画家。大阪出身。父の長竹斉、田近竹遜に学ぶ。明治から昭和戦後の人。

富永竹村(ちくそん)上越市三和区神田の眼科医で画家。亀田鵬斎に漢学を学ぶ。江戸後期の人。





 
山田東洋(とうよう)柏崎市の洋画家。

斎藤俊雄(さいとう・としお)高田出身の洋画家。中村不折に学ぶ。


鳴海虎一(とらいち)高田の能画家。大町に住んだ。

牧野虎雄(とらお)高田出身の洋画家で、東京の美大教授になった人。高田藩士の子で高田で生れるが幼時に東京転居。帝国美術学校と多摩美術学校(現在の美大)の教授をした。


鈴木魚都里(なつり)本名:重春 高田藩士で、俳人。江戸後期ころの人。

 号、下の名前のあいうえお順
中根半仙(なかね・はんせん)
高田藩の藩医で書道師範。巻菱湖に学ぶ。藩主に書を教えた。江戸詰め高田藩士の子。半嶺の父。江戸後期の人。
中根半嶺(なかね・はんれい) 
高田藩の藩医で書道師範。藩校修道館の書道教官をつとめた。 中根半仙の子で父の職をついだ。子は半湖。 隷書が得意。日本書道会創設につくした。 
中根半湖(はんこ)高田藩士中根半嶺の子で、東京の書家。明治に活躍。
武田範之(はんし)上越市浦川原区の顕聖寺住職。曹洞宗。幕末明治の人。

戸田秀男(ひでお)高田出身の画家。同郷の斎藤俊雄とともにパリで洋画に精進した。中村不折に学ぶ。

前島 密 (ひそか)高田郊外の下池辺出身で、日本郵便制度の創始者。高田藩士の子。「郵便の父」と称される。漢詩を書を残す。幕末から大正の人。


山田文川(やまだ・ぶんせん)越後柏崎の画家。森蘭斎に学ぶ。

片桐文畝(かたぎり・ぶんぽ)柏崎市の画家。明治から大正の人。
 
倉石米山(べいざん)高田城下町の豪商。上越市本町6丁目にあった「角の倉石家」主人。越後に来た南画家・釧雲泉(くしろ・うんぜん)に学び、絵を描いた。倉石乾山(けんざん)の父。江戸中期から後期の人。

高野米峰(べいほう)柏崎市の文人。長崎で日高鉄翁に南画を学んだ。

山崎弁栄(べんねい)辨榮 浄土宗の僧。仏画をよく描いた。柏崎市の極楽寺で亡くなった。
 
勝田忘庵(かつた・ぼうあん)柏崎市の文筆家で、書家、篆刻家。
増村朴斎(ぼくさい)上越市板倉区の教育者で、有恒学舎創立者。板倉の旧針村に有恒学舎を創立。郷土の人材を育成した偉人。
藍沢北溟(ほくめい)越後刈羽郡出身の私塾教師。越後片貝(小千谷市)で教師をした。書をした。江戸後期の人。
ま 
榊原政敬(まさたか)高田藩最後の藩主。榊原家十四代。上越市の榊神社に祀られる。



牧田実(みのる)高田分校にいた新潟大学教授で洋画家。
小川未明(みめい)高田出身の童話作家。春日山神社小川澄晴の子。




会津八一(やいち)号:秋艸道人(しゅうそうどうじん)新潟市古町出身の美術史学者。板倉の有恒学舎で英語教師をしたのが最初の仕事だった。高田に疎開した写真家・濱谷浩とは交流深く、高田の濱谷宅を訪れた。高田の陶芸家・齋藤三郎を訪れ「泥裏珠光」の号を与えた。

鳥越憂(とりごえ・ゆう)直江津の画家。

墨川亭雪麿(ぼくせんてい・ゆきまろ)本名:田中親敬  高田藩士で戯作者。江戸詰高田藩士の子で江戸に住んだ。*戯作者(げさくしゃ、ぎさくしゃ)は、通俗小説を書いた作家。


北條頼浄(ほうじょう・らいじょう)高田の照行寺の住職で画家。裏千家茶人北條宗幽の父。田中頼章に学ぶ。
森 蘭斎(らんさい)越後新井(妙高市旧新井市街)出身の画家。長崎絵を熊代熊斐学(くましろ・ゆうひ)にぶ。加賀藩お抱え絵師になったという。
菅井蘭亭(すがい・らんてい)高田藩士。南画の大家・滝和亭(かてい)に学んだ。
り 
仙田菱畝(せんだ・りょうほう)上越市安塚区出身の画家。旧小黒村の仙田家の養子で、直江津の石塚仙堂の弟。
竹内臨川(たけうち・りんせん)本名:忠雄    上越市板倉区出身の書家で新潟大学教授。書道科の創設に尽す。
白川林泉子(しらかわ・りんせんし)  上越市板倉区出身の教員で書家。俳句もした。
 
磯野霊山(いその・れいざん)高田にいた新聞記者で画家。 



文中で、高田は上越市の旧高田市街地、直江津は上越市の旧直江津市街地のこと。

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【郷土新潟県上越周辺ゆかりの美術作家メモ 陶芸家工芸家ページ】上越市.旧高田市.旧直江津市

陶芸家とその他の工芸家で、新潟県上越地方周辺ゆかりの人物を何人か紹介しているページです。 美術作家メモもくじページ  遊心堂お店案内  

文中で、高田は上越市の旧高田市街地、直江津は上越市の旧直江津市街地のこと。
遊心堂お店案内

以下は、号または下の名前のあいうえお順

河合卯之助(かわい・うのすけ)京都の陶芸家。大正頃から柏崎市の文人らと交流した。

高野久山(弓山)直江津の五智国分寺裏に住んだ「五智焼」の陶芸家。明治大正に人物像や雑器を作った。
小山欽哉(きんさい)本名:金平 柏崎市の漆芸家。「金磨塗」を考案。


橋詰光越(はしづめ・こうえつ)長岡市の漆芸家。
平田光楽(こうらく) 誠二郎  柏崎市の平田呉服店主人で漆芸家。 塗師内田宗寛の実弟。
小山古月(こげつ)柏崎市の漆芸家。欽哉(金平)の弟。宗健(健蔵)の父。
梶 古拙(かじ・こせつ)新潟市の漆芸家。螺鈿。


齋藤三郎(さぶろう)初代陶齋(とうさい)、泥裏珠光(でいりじゅこう)高田の陶芸家。長岡市旧栃尾市の出身。 京都で近藤悠三、富本憲吉ら二人の人間国宝に学んだ。齋藤尚明(二代陶齋)の父。


志賀重人(しげと)本名:重雄  高田出身の陶芸家。 高田の陶芸家齋藤三郎に学ぶ。のち京都で高田出身の内田邦夫ほか何人かに学んだ。オーストラリアで成功した。
寿山(じゅざん)直江津の五智の陶芸家。明治に「五智焼」をつくった。


内田精一(せいいち)柏崎市の塗師。塗師内田宗寛の子。

原晴雲(せいうん)襲名:惣右衛門  柏崎市大久保の鋳金家。三代続いた。

大月清五郎(せいごろう)糸魚川市の漆芸家。



内田宗寛(そうかん)号:柏竹庵(はくちくあん)柏崎市の塗師。 
小山宗健(そうけん)本名:健蔵  柏崎市の漆芸家。小山古月の長男。



本間琢斎(たくさい)佐渡市の鋳金家。初代は越後大久保(柏崎市)の出身。佐渡奉行に招かれ佐渡に移り、佐渡銅器を始めた。以後、代々続く。
金井正(ただし)糸魚川市旧青海町の陶芸家。清水卯一に師事。
小野為郎(ためろう)村上市の漆芸家。二代続いた。


井部富夫(とみお)高田郊外の滝寺の陶芸家。上越市頸城区出身。滝寺窯と称す。


原直樹(なおき)柏崎市大久保の鋳金家。香取秀真に師事、東京美術学校卒。鋳金家・原松州の長男。長男原正樹は東京芸術大学教授。


滝川美堂(びどう)直江津の五智の彫刻家。糸魚川市旧能生町小見の出身。木彫で上杉謙信像を作ることに生涯をかけた。上京し斉藤美洲と朝日明堂に学び帰郷。滝川美一の父。



滝川毘堂(びどう)本名:美一(よしかず)五智出身の彫刻家。美堂の長男。春日山の上杉謙信公銅像を造った。
*お詫び 末尾に「目標を達成し千体目を林泉寺に奉納した。」と記載していたのは某書籍を参考にしたものですが、そういう事実はございませんでした。ご指摘いただいた方には敬意を表し感謝いたします。


原正樹(まさき)柏崎市大久保出身の金工作家で東京芸大教授。原直樹の長男。
佐久間正孝(まさたか)高田の木彫家。大町に住んだ。
江島正隆(まさたか)高田の木彫家。初代後藤正義の弟子。東城町に住んだ。
北村正信(まさのぶ)糸魚川市旧青海町出身の大理石彫刻家。北村四海の弟子で養子。
後藤正義(まさよし)高田の木彫家。初代は根付師。戦前、四代まで続いた。
原益男(ますお)柏崎市大久保の鋳金家。


吉田隆介(りゅうすけ)柏崎市の陶芸家。京都の森野嘉光に師事。


岩野勇三(ゆうぞう)高田出身の彫塑家。東京造形大教授。佐藤忠良に師事。中原悌二郎賞。

戸張幸男(とばり・ゆきお)高田にあった新潟大学高田分校にいた彫刻科教授。


文中で、高田は上越市の旧高田市街地、直江津は上越市の旧直江津市街地のこと。
  

【木村秋雨】新潟県上越市旧高田市郊外の禅僧

木村秋雨(しゅうう) 美術作家メモもくじページ    遊心堂お店案内
明治39-昭和63  高田郊外の禅僧



高田郊外の禅僧木村和尚は、書物に埋もれて暮らし、読みにくいくずし字も読んだ。
加藤良作はしばしば読んでもらった。和尚自身も書をよくし、良寛を尊敬していた。
「良寛さんはウソ字は書かないが、自分はたまにウソ字を書く」と言った。
和尚の書は、独自のくずし字が多かった。
加藤良作は「遊心堂」の看板を書いてもらった。それも奔放(ほんぽう)な書体である。
半世紀ほど外に出ていて、字が消えてきたため、現在は本店(西城町)のなかに掛けている。

木村和尚は郷土史が好きで、上越の茶人について本に書いた。また茶道具には興味があった。だが茶の点前(てまえ)作法には無関心で、高田新田の不白流清水宗観の所に出入りするも稽古(けいこ)はせず、弟子というわけではなかった。茶会では自由勝手に振る舞うこともあったらしい。

 木村和尚は十代のとき、会津八一の歌集に感激した。過去に針村(板倉)の有恒学舎(ゆうこうがくしゃ)で教員をしていたのを知ると、入学した。そして舎主増村朴斉(ぼくさい)に紹介状をもらい東京に行き、会津八一との面会を果たす。
書生になるのは初対面の時でなく、警察官になるが辞め、禅僧になってからの30歳頃だった。断られた経緯があり、お手伝いがいなくなってやっと書生になることができた。2年ほどの書生だったが、秋艸道人会津八一を終生尊敬した。秋雨という雅号(がごう)にそれが表れている。

陶芸家・五智窯の木村隆(りゅう)には木村和尚が「五智窯」の看板を書いたという縁がある。下は木村和尚が「無事」という字を書いて、五智窯で焼いた茶碗。箱書は木村和尚。


下は木村隆の夫人・木村正子が描いたお雛さんの絵に和尚が賛をしたもの。

描いた当時は旧姓で、本山正子。昭和50年、遊心堂ダイワ店が開店した当初、店員されていた。遊心堂深田正明によるとそのころの絵で、おひなさんを描いて持ってきて、だれかに賛を書いてほしいと言ったという。


お礼
木村和尚が会津八一の書生になったいきさつは、サイト「あき乃」の「会津八一50話 ①家来 木村秋雨さん」を参考にさせていただき、要約させていただきました。
「あき乃」は新潟市本町の人情横丁にある小千谷そばと天ぷらのお店のサイトです。
木村和尚の生前に直接話しを聞いたのが文章になっており、語った口調で書かれていてとても面白く、参考になりました。祖父加藤良作は、木村和尚が押し掛け女房のように会津さんのところに住み込んでしまったと言っていて、このへんのいきさつは把握していなかったようです。「あき乃」さんありがとうございました。

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【堀口大学】新潟県上越市旧高田市に疎開した詩人

堀口大学(だいがく)   美術作家メモもくじページ    遊心堂お店案内
明治25-昭和56  高田に疎開した詩人

堀口大学は高田に疎開した詩人。
フランス詩を翻訳(ほんやく)した訳詩集(やくししゅう)が評価高い。文化勲章受章。

骨董好きで、加藤正作(しょうさく、良作の父)の店によく訪れた。いつも和服姿だった。加藤良作は家(榊神社から南へしばらく)によく届け物に行った。
ガラス戸の家具には骨董がぎっしり。古九谷のような高価なものでも雑器と同じように使った。
娘の堀口すみれ子は当時幼稚園くらいだった。葉山に移ってからも交流があった。


亡くなってから、加藤良作は陶芸家齋藤三郎と、石碑(せきひ)を建てる相談をした。
他の有志者とお金を出し合い、詩碑「高田に残す」を高田公園に建てた。

【内田宗寛】新潟県上越市旧高田市ゆかりの柏崎市の塗師

内田宗寛(そうかん) 美術作家メモもくじページ    遊心堂お店案内
明治16-昭和59 柏崎の塗師



内田宗寛(右)と遊心堂加藤良作。お茶会で。
内田宗寛は柏崎市の塗師。高田郊外の禅僧木村秋雨は柏崎をよく訪れ、菓子盆に朱漆で字を描いた。実弟の平田光楽(こうらく)が蒔絵をしたものもある。
有名蒔絵師の棗の塗りを手がけるなど、下職(したしょく)も多くしたらしい。
茶人でもあり、茶会では加藤良作としばしば同席した。長寿で百歳まで生きた。

兼中斎筆 曳舟画(ひきふねえ)雪吹(ふぶき) 内田宗寛作

この薄茶器は、ふたりの「宗(そう)かん」の合作。
表千家の兼中斎こと堀内(ほりのうち)宗心宗匠が「宗完」を名のっていた時、朱漆で画(え)を描いたもの。黒い塗りは内田宗寛による。

【濱谷浩】新潟県上越市旧高田市に疎開した写真家

濱谷浩(はまやひろし) 美術作家メモもくじページ    遊心堂お店案内
大正4-平成11  高田に疎開した写真家
詩人堀口大学は、濱谷浩を「天の写真家」と評価し、仲人をするなど家族ぐるみで交流があった。濱谷は高田で疎開中に、堀口の仲人で、江戸千家茶人の濱谷宗朝(そうちょう)と結婚した。濱谷家の茶室の庵号を「寸雪庵(すんせつあん)」と名付けたのも堀口大学だった。
会津八一は晩年に、新進気鋭の若手写真家だった濱谷浩と交流があった。濱谷は、なかなか笑わない会津を笑わせて、微笑をうかべる肖像写真を撮るなど、才能を発揮した。

陶芸家齋藤三郎は大正2年生れ。遊心堂加藤良作は大正3年生れ。写真家濱谷浩は大正4年生れ。3人年齢が続いて仲がよく、「自分たちのことを“三兄弟”と呼んでいた」と、加藤良作は笑って語った。
下は濱谷の手造(てづくり)茶碗 銘「遊心」 斎藤三郎の陶齋窯にて作陶。

この茶碗は、銘から察すると、濱谷浩が加藤良作に与える目的で造ったのだろう。
陶齋窯で三人が談笑する姿が浮かぶ。

二代目【加藤良作】について

加藤良作(りょうさく)大正3(1914)ー平成29(2017)享年103 

加藤良作(りょうさく)は、高田の骨董商加藤正作(しょうさく)の次男だが後継ぎであった。長男は正作の兄の養子となったためだった。 大手町小学校に通う時分から、茶道を不白流清水宗観に学んだ。良作は「胸を病み、(旧制の)中学を辞めた」という。その後の若い時分、東京日本橋の家具屋で働いた。親戚で丸山製作所を経営する内山家の世話があった。その後帰郷して正作のもとで働いた。


良作は、戦争になって福井県の軍隊に入隊した経験がある。復員後も正作のもとで働いた。当時のことを「親の小僧っ子だった」と言っていた。
昭和28年9月、数え40歳で古物商鑑札を得て、父のもとを離れ幸町(さいわいちょう)に移った。


昭和31年秋に、西城町(にししろちょう)3丁目に家を買い、そこで店を構えた。これは正作が晩年に寝込むようになったので、本町の正作の自宅兼店舗の「正美堂」を売り、西城町に家を買って住み、自分のもとで面倒を見たのだった。良作ははじめ「高田加藤」といい商売をしたが、屋号を考えて店を「遊心堂」と名付けた。
西城町3丁目は現在もなお、(有)遊心堂の本店所在地である。

良作ははじめ同業者相手の商売(卸売り)がほとんどだったが、徐々にお客さん相手の小売りもするようになった。
良作は茶道ははじめ不白流、のちに表千家を学び茶道具を主に扱った。江戸千家、表千家、裏千家の茶人や煎茶道の茶人と交流があった。蒔絵などの古漆器、伊万里焼など古陶器、箪笥など古民芸品も扱い、コレクター青山二郎と交流した。そのため青山二郎関連の本にしばしば良作もしくは遊心堂の名が見られる。
高田に疎開した文化人の詩人堀口大学、写真家濱谷浩らとは疎開を終えた後も長く交流があった。陶芸家齋藤三郎、禅僧木村秋雨ら郷土の文化人と交流し、ときに支援もした。吉原炎上で知られる画家斎藤真一は瞽女の取材で訪れ交流が続いた。また新潟大学高田分校の教授ら先生方々と親交があった。
人の援助や寄付をすることたびたびだった。高田ロータリークラブの会員で、社会貢献をし、会合を楽しみにした。名誉会員となった。

昭和50年に会社化し、有限会社遊心堂社長となった。娘婿の深田正明が専務となった。
これは、初代のイレブンビル社長・来海(きまち)氏から誘いがあり、上越大和(だいわ)のテナント出店が決まっていたためであった。開店に先がけて会社にしたのだった。
同年7月に、大和4階に遊心堂ダイワ店を開店した。ダイワ店は、茶道具を中心とした店だった。消耗品、稽古道具から取り揃えた。そのほか、贈答品に向いた陶器や漆器も扱った。

昭和56年から4年間、新潟県美術商組合の初代組合長をつとめた。平成時代に入っても良作は健康で、80代半ば頃まで商売をしていた。
平成10年には深田正明に社長を譲り、会長となった。

晩年の平成13年(当時87歳)には、皇族の高円宮さまに根付(ねつけ)を献上した。【高円宮さまに根付を献上した遊心堂加藤良作】

平成 25(2013)年1月29日で、満99歳。数えで100歳を迎えた。
平成29(2017)年9月6日(水) 午前6時15分、老衰のため上越総合病院で他界。享年103歳の大往生だった。

終り  有限会社遊心堂 加藤裕明(良作孫養子)
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【青山二郎】新潟県上越市旧高田市の遊心堂ゆかりの美術評論家

明治34-昭和54 美術評論家

青山二郎は、東京の大地主の家に生まれ定職に就かず、骨董を買い、美術評論や本の装丁(そうてい)をして生き、「高等遊民」といわれる。
小林秀雄は盟友。白洲(しらす)正子は骨董の弟子だが、飲めない酒を飲むなど壮絶な付き合いをした。

遊心堂加藤良作にとってはよきお客で、「青山さんは家の財産で暮らしていた人だ」と語っていた。
現在活動する文筆家白洲信哉(しんや)は、白洲正子の孫であり小林秀雄の孫でもある。
白洲信哉は青山二郎の取材のため遊心堂西しろ店(本店)を訪れた。

【坂口謹一郎】新潟県上越市旧高田市出身の酒博士

坂口謹一郎(きんいちろう) 美術作家メモもくじページ    遊心堂お店案内
明治30-平成6 高田出身の酒博士

坂口博士は高田出身の農芸化学者。東大教授。発酵学の世界的権威で「酒博士」といわれた。和歌を好み、歌会始の召人(めしうど)をつとめたことがある。

この掛軸の裏には加藤良作が、「酒の坂口先生より頂く 加藤」と記してある。

【三浦康廣】新潟県上越市旧高田市の新潟大学高田分校にいた書道教授

 三浦康廣(やすひろ) 美術作家メモもくじページ    遊心堂お店案内


書家三浦康廣は高田分校にいた新潟大学教授。慈雲(じうん)の書を研究し、自らは思雲と号した。 
三浦先生は、高田北城高校のとなりの借家で書道教室をしておられた。私(遊心堂加藤裕明)と弟は小学生時分、自転車で毎週習字に通った。三浦先生のおかげで書道は何度か賞を獲ったし同級生に褒められた。高田分校の廃校は昭和57年だが、それ以前の私が中学生にならない内に先生は教室を閉めて新潟市に転居されたように覚えている。非常に寂しいお別れであった

今思い出すと小学生だからほとんど楷書だったが、目の前で手本を書いて下さり、それはそれは大変美しい書であった。私はお別れしてから二人の先生に習ったが、学生の手本を書くのでも三浦先生には到底及ばなかった。楷書ひとつ書くにも、大学教授と田舎の先生では全く違うものだと思った。三浦先生に習っていたことが非常に貴重なことだったと後からしみじみと感じた。私は書道をやめてしまったが、弟は続けて書道で教員となった。三浦先生に教わったことが良い基礎になっているように思う。
三浦先生からは毎年年賀状が来ていたが、90歳頃か、これを最後にする旨の年賀状が来た。その後亡くなったことを聞いたが、長生きされたようである。

【加藤僖一】新潟県上越市旧高田市の新潟大学高田分校にいた書道教授

加藤僖一(きいち) 美術家メモもくじ  遊心堂お店案内 
書家加藤僖一は高田分校にいた新潟大学教授。
良寛の書の研究であまりに有名で、著書は多い。

交流があった遊心堂加藤良作は、良寛の楷書を思わせる加藤僖一書の掛軸を持っていた。

加藤良作の遊心堂は西城町の三ノ辻(さんのつじ)にあり、通学通勤の通りで高田分校は近かったので、当時店に寄った先生は多い。

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創業者【加藤正作】について

加藤正作(しょうさく)1883(明治16)-1958(昭和33)   

加藤正作の骨董店
加藤正作は明治に高田の本町(ほんちょう)生まれ育ち、祖父は高田藩の役人だった。父は明治時代のなか苦労し、何度か商売替えをし最後は陶器店をした。正作はこれを継いで本町2丁目に住んで陶器店をしたが、大正2年(1913)30歳のとき古物商鑑札を得て創業、大正8年に骨董店を始めた。

最初の店は本町3丁目で高田で一番の「長沢旅館」の中で、そこの一室を借りて店を出した。旅館はのちに富永医院となり現在は清華ファミリークリニックである。
その後、正作の店は本町を転々とし、最後は本町2丁目に移って落ち着いた。場所はリスドール(パン屋)から南側へ、森平(もりへい/化粧品店)まで行かない所であった。




屋号は「加藤骨董店」と称した時代もあったらしいが、最後は名前の一字を入れて「正美堂(しょうびどう)」となった。江戸千家茶人・青木俊雪氏(渋柿浜の専念寺住職)は、正美堂に行くと「茶道具についてよく教わった」とおっしゃていた。茶道具を主に扱い、お茶の先生方がよく来たという。

良作が正美堂に「よく来た」という著名人は、詩人堀口大学。それと、高田の陶芸家・齋藤三郎。親友の版画家棟方志功(むなかた・しこう)を連れてきたことがある。
正作は晩年、体調を崩し寝込むようになった。良作は家を出て別に住んでいたが、正美堂(家でもあった)を売って、西城町に家(遊心堂西城本店)を買って移り、そこで正作の面倒を見た。正美堂は消滅したが、遊心堂と名を変えてその精神は受け継がれることになった。正作は昭和33年に没した。

加藤正作の家系
加藤正作の家系は、江戸時代にさかのぼると高田藩領の頚城郡稲谷村(いなたにむら※)の加藤多助(たすけ)家である。加藤多助は大肝煎(おおぎもり、村役人)で、代々多助を襲名した。
※稲谷村は明治時代の合併で中頸城郡高士村の一部となり、のち高田市に編入された。現在は上越市稲谷。付近には岩の原ワインの北方がある。隣は上越市清里区。

幕末の加藤多助の弟に加藤良助(りょうすけ)がおり、次男坊のため家を出て高田藩の触元(ふれもと)役所の長をした。この良助が正作の祖父にあたる。多助も、良助も高田藩の役人であり、正作はその血を継いでいるのだった。

良助の娘婿である加藤太十八(たそはち)は明治時代を迎えて苦労し、商売を何度か変え最後は陶器店(せともの屋)となった。

加藤正作は、太十八の七男であった。七男とはいえ、兄たちは亡くなったり養子に出たりで、結局加藤家に残されたのは六男加藤芳造と七男正作だけであった。芳造が兄のため本家ということになるが上京して高田を去ってしまった。加藤正作は家業の陶器店を継いで高田に残ったが、弟であるため分家という妙なことになった。

正作が骨董商に転業して上をめざしたのには、高田藩の役人の家柄というプライドが背景にあったかもしれない。
また、正作の兄には、三男加藤安治と四男加藤信治(のぶじ)がいた。二人は養子に出て、丸山安治内山信治となった。丸山安治は「丸山商会」を設立し、当時輸入していた消火器を高田で製造することに成功したという。丸山安治は東京に移り、丸山商会はその後「(株)丸山製作所」という会社になった。兄を助けた内山信治が丸山製作所を継いで発展し今日も続く。なお、安治は高田一の呉服商「丸庄」の娘婿となった。丸山分家。


終り  有限会社遊心堂 加藤裕明(良作孫養子)
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【斎藤真一】新潟県上越市旧高田市の高田瞽女を取材した洋画家で作家|遊心堂HP

斎藤真一  美術作家メモもくじページ    遊心堂お店案内

▼斎藤真一(左)と遊心堂加藤良作。西しろ店(本店)の前で。

斎藤真一は洋画家であり作家であった。文章を書き、挿絵描いて本を出した。
瞽女(ごぜ)の本を書くために遊心堂加藤良作を訪れ、遊心堂西しろ店の2階に上がり高田瞽女の取材をした。良作とはゆっくり談話をした。

吉原遊女の本も出し、ついには昭和62年に、映画「吉原炎上」となって広く世に知られた。没後も有名で絵の評価は高い。

▼下は素描の小品。
私(遊心堂加藤裕明)は祖父加藤良作に連れられて、東京のお宅に伺った覚えがある。斎藤真一先生の晩年だったように思う。

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【齋藤三郎】新潟県上越市旧高田市の陶芸家

齋藤三郎  美術作家メモもくじページ    遊心堂お店案内
号・陶齋(とうさい)、泥裏珠光(でいりじゅこう)
新潟県上越市旧高田市寺町の陶芸家。長岡市旧栃尾市出身。
昭和に活躍した高田の陶芸家。栃尾(現長岡市)生れ。
京都で近藤悠三、富本憲吉ら二人の人間国宝に学んだ。戦後に高田(当時は高田市)に定住した。寺町で兄の齋藤泰全さんが、久昌寺(きゅうしょうじ)住職をしていたので、昭和21年にたよってこられた。
昭和23年に窯を築いた。陶器も磁器もした。椿絵は最も得意とした図柄。色絵の磁器の皿や壷にすぐれた作品が多いようだ。白磁や灰釉(かいゆう)など、絵のない作品も多い。
陶齋を号とし、齋藤陶齋ともいう。現在は子の齋藤尚明さんが陶齋を襲名しておられるので、三郎さんが初代齋藤陶齋、尚明さんが二代齋藤陶齋ということになる。昔から号よりも本名で「三郎さん」と親しみをこめて呼ぶ人が多いようだ。
 

★三郎さんの想い出 遊心堂会長加藤良作(大正3年生れ)


「三郎さんは兄の泰全さんが久昌寺の住職をしていたので、たよって高田にこられました。お寺のうらに窯を築きました。
終戦直後に来たばかりの頃は、売る場所もなかったので、高田別院のおたやで台を出して、湯呑や食器を並べて売っておられました。お茶(茶道)の茶碗は2つ3つはあったかな、という程度でした。

三郎さんははじめ、わたしの父親(正作=しょうさく)の店に来られました。本町で骨董屋をしていた時分で、古いいい物があるので、作家にとって勉強になったからです。そのときわたしは親の小僧をしていましたから、親が話し相手でした。
棟方志功(版画家)さんと親しく、親の店に連れて来たこともあります。志功さんはそのときはまだ売れる前でした。変わった、面白い格好をしていました。青木さん(大潟区のお寺さんでお茶人)は三郎さんと仲良くしていましたねえ。三郎さんは、いろんな方を連れて来られました。

三郎さん、私、疎開していた濱谷さん(写真家の濱谷浩=はまやひろし)。三郎さんが一番年上で、私、濱谷さんの順で、歳がひとつ違いで続いていたのでわたしらは「三兄弟」と言っていました(笑)。

三郎さんは話し相手のためになる面白い話をする人で、それはとても上手でした。余計な事を話すおしゃべりではありませんでした。酒呑みでしたが、呑んで騒ぐ人ではありませんでした。

大杉屋さん、池田さん、石黒さん、藤林さん、金城(かねしろ)さん、登戸さん・・・大勢と仲良くしていました。映画館の弁士をしていた人は名前をなんといったか、太っ腹で多く買ってました。
小栗さんはよく、うちと三郎さんの所と半日づつ遊んで行きました。木村和尚は買うわけでなく、話をしによく行ってました。わたしはおつきあいで湯呑をよく買いました。
三郎さんの所に買いに行く人が多く、個展はそう多くはしなかったようです。

高田市立図書館(榊神社の向かいにあった)で「上杉謙信公展」をしましたが、三郎さんが音頭を取って実現したのです。わたしや小栗さんも協力して、米沢からいろいろ借りてきました。(昭和43年のことで、図録のあいさつ文に、上杉謙信公会会長・齋藤三郎、とある)
高田の朝市(大町)が好きでした。そのついでにうち(西城の遊心堂本店)に寄ったりされました。タケノコ、ふきのとう、うど、赤トウガラシなど、季節の野菜を買い、それを写生しました。齋藤尚明さん、森本昇さんがワラでつるしたトウガラシを描いてますが、はじめ描いたのは三郎さんです。
三郎さんに遊心堂の包装紙を描いてもらったのは、上越大和(昭和50年開店)ができる前のことです。(下の写真)

晩年はなかなか売るのがたいへんになりました。それでわたしが五人展と親子展を企画してあげたんです。会場は今はもうない平安閣でした。そのときは結構売れたと記憶しています。」終


上越地方は永くやきもの不毛の地でした。明治大正ころ、五智や金谷山でやきものをした人はいますが、経営を続けるのは難しく、短期間で廃業しています。三郎さんはこの地に根付いた最初の陶芸家なのです。近藤悠三、富本憲吉ら二人の人間国宝に学んだ技術はすごく、このような人が高田のような田舎町に居たというのは奇跡です。上越のみならず新潟県内各地に偲ぶ人がいらっしゃいます。新潟県の伝説の陶芸家といえましょう。
2007年に樹下美術館が上越市頚城区に開館。齋藤三郎さんの業績を伝えています。

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【相馬御風】新潟県上越市旧高田市ゆかりの糸魚川の文人

 相馬御風(そうま・ぎょふう) 美術作家メモもくじページ  遊心堂お店案内
糸魚川の文人

相馬御風は、新潟県糸魚川市(いといがわし)生れ。
上越市旧高田市の高田中学に通った。

「糸魚川の歌人」のイメージ強いが、早稲田大学に入り、三十歳過ぎまで東京の文芸界で大活躍して帰郷した。校歌などで知られて、いまだ知名度は高い。


★遊心堂加藤良作(大正3年生れ)が語ったエピソード  

御風さんはわたしの父親が本町で骨董屋をしていた時分、何度か来られた。
わたしは汽車に乗って、糸魚川の御風さんの家に届けものをしたことがある。
だが、話をした記憶はない。
その時分、わたしは親の小僧っ子だったので、話し相手はもっぱら親だった。


★御風作詞の上越民謡

相馬御風は上越地方の民謡も多く作詞している。
「いくさするなら謙信公のような アリャ謙信公のような・・・」の「春日山節」。
「直江津小唄」「高田小唄」「新井小唄」「新井甚句」
「スキー節さらさらと」「スキー民謡雪のお山で」など。

御風さんについては何といっても糸魚川市歴史民俗資料館(相馬御風記念館)に行くとよくわかります。

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