創業者【加藤正作】について

加藤正作(しょうさく)1883(明治16)-1958(昭和33)   

加藤正作の骨董店
加藤正作は明治に高田の本町(ほんちょう)生まれ育ち、祖父は高田藩の役人だった。父は明治時代のなか苦労し、何度か商売替えをし最後は陶器店をした。正作はこれを継いで本町2丁目に住んで陶器店をしたが、大正2年(1913)30歳のとき古物商鑑札を得て、大正8年に骨董商を始めた。

最初の店は本町3丁目で高田で一番の「長沢旅館」の中で、そこの一室を借りて店を出した。旅館はのちに富永医院となり現在は清華ファミリークリニックである。
その後、正作の店は本町を転々とし、最後は本町2丁目に移って落ち着いた。場所はリスドール(パン屋)から南側へ、森平(もりへい/化粧品店)まで行かない所であった。




屋号は「加藤骨董店」と称した時代もあったが、最後は名前の一字を入れて「正美堂(しょうびどう)」となった。江戸千家茶人・青木俊雪氏(渋柿浜の専念寺住職)は、正美堂に行くと「茶道具についてよく教わった」とおっしゃていた。茶道具を主に扱い、お茶の先生方がよく来たという。

良作が正美堂に「よく来た」という著名人は、詩人堀口大学。それと、高田の陶芸家・齋藤三郎。親友の版画家棟方志功(むなかた・しこう)を連れてきたことがある。
正作は晩年、体調を崩し寝込むようになった。良作は家を出て別に住んでいたが、正美堂(家でもあった)を売って、西城町に家(遊心堂西城本店)を買って移り、そこで正作の面倒を見た。正美堂は消滅したが、遊心堂と名を変えてその精神は受け継がれることになった。正作は昭和33年に没した。

加藤正作の家系
加藤正作の家系は、江戸時代にさかのぼると高田藩領の頚城郡稲谷村(いなたにむら※)の加藤多助(たすけ)家である。加藤多助は大肝煎(おおぎもり、村役人)で、代々多助を襲名した。
※稲谷村は明治時代の合併で中頸城郡高士村の一部となり、のち高田市に編入された。現在は上越市稲谷。付近には岩の原ワインの北方がある。隣は上越市清里区。

幕末の加藤多助の弟に加藤良助(りょうすけ)がおり、次男坊のため家を出て高田藩の触元(ふれもと)役所の長をした。この良助が正作の祖父にあたる。多助も、良助も高田藩の役人であり、正作はその血を継いでいるのだった。

良助の娘婿である加藤太十八(たそはち)は明治時代を迎えて苦労し、商売を何度か変え最後は陶器店(せともの屋)となった。

加藤正作は、太十八の七男であった。七男とはいえ、兄たちは亡くなったり養子に出たりで、結局加藤家に残されたのは六男加藤芳造と七男正作だけであった。芳造が兄のため本家ということになるが上京して高田を去ってしまった。加藤正作は家業の陶器店を継いで高田に残ったが、弟であるため分家という妙なことになった。

正作が骨董商に転業して上をめざしたのには、高田藩の役人の家柄というプライドが背景にあったかもしれない。
また、正作の兄には、三男加藤安治と四男加藤信治(のぶじ)がいた。二人は養子に出て、丸山安治内山信治となった。丸山安治は「丸山商会」を設立し、当時輸入していた消火器を高田で製造することに成功したという。丸山安治は東京に移り、丸山商会はその後「(株)丸山製作所」という会社になった。兄を助けた内山信治が丸山製作所を継いで発展し今日も続く。なお、安治は高田一の呉服商「丸庄」の娘婿となった。丸山分家。


終り  有限会社遊心堂 加藤裕明(良作孫養子)
<遊心堂HP>2019(令和元)年5月修正更新