※書家、画家と言っても専業の人ばかりではない。趣味で書や画を描いた有名人が多く含まれる。これらの作品の形態はさまざまで、掛軸(たて幅や横幅)が多いが、額装のものもあるし、色紙もある。まれに屏風や扁額(へんがく、横長で高い所に掛ける)もある。
文中で、高田は上越市の旧高田市街地、直江津は上越市の旧直江津市街地のこと。
以下は、号または下の名前のあいうえお順
山田愛山(あいざん)本名:辰治 上越市頚城区百間町の地主。上越軽便鉄道(現在の頸城自動車株式会社)に多額の出資。大竹謙治初代社長の兄。明治から昭和半ばの人。
い
十辺舎一九(じっへんしゃ・いっく)江戸の戯作者(げさくしゃ、通俗小説を書いた作家)。善光寺参りの際に高田に滞在し高橋飴屋が厚くもてなした。
う
小倉右馬(おぐら・うま)高田の教師で歌人。高田藩士の子。明治から昭和戦前の人。
樋口雲仙(ひぐち・うんせん)高田藩士で絵師。増田桂堂に学んだ。幕末明治の人。
釧雲泉(くしろ・うんぜん)肥前出身で、各地を旅した南画家。越後に来て一時、三条に住む。越後の各地を遍歴し、南画の門弟は、石川侃斎(かんさい、新潟)、上田旭山(村上)、倉石米山と倉石乾山の父子(高田)、行田八海(三条)など。長崎で学ぶ。江戸後期の人。
え
東洋越陳人(えっちんじん)五智の画家。上越市三和区旧野村出身。幕末から大正の人。
か
長岡外史(がいし)雅号:護堂 高田の十三師団の師団長を務めた軍人。レルヒ少佐に指導を頼み、日本スキー発祥をもたらした偉大な人物。漢詩の書を遺す。幕末から昭和戦前の人。
き
増田義一(ぎいち)雅号:奎城 上越市板倉区出身の実業家。出版社「実業之日本社」社長。明治から昭和戦後の人。
川合清(きよし)高田の大学教授で画家。新潟大学教授で高田分校で教え、のち上越教育大学教授となった。東京美術学校卒のち芸大助教授。中村岳陵に師事。
相馬御風(そうま・ぎょふう)糸魚川市の文人。短歌の歌人、校歌の作詞、良寛研究などに業績。旧高田市の高田中学から早稲田大学へ進み、東京で活動のち帰郷。明治から昭和戦後の人。
月岡玉瀞(ぎょくせい)稲田文子 高田の浄興寺の御裏(おうら、奥様)で画家。画家月岡耕魚の娘、月岡芳年の孫。父同様、能画(能を舞う人の絵)を描いた。昭和から平成に活躍。
吉田玉潤(ぎょくじゅん)高田の画家。川端玉章に学ぶ。明治大正の人で三十代半ばで早世。
坂口謹一郎(きんいちろう)高田出身の発酵学者で東大教授。「酒博士」と称される偉人で、世界的権威。文化勲章受賞。歌会始の召人(めしうど)をつとめたこともある。明治から平成を生きた長寿。
松山琴谷(きんこく)越後糸魚川の商人で画家。山水画を描いた。江戸後期の人。
東条琴台(きんだい)高田藩の藩校修道館の教官。亀田鵬斎に儒学を学ぶ。漢詩を多く遺す。幕末明治の人。
け
村山径(けい)柏崎市出身の画家。大正から昭和末の人。
滝本頸城(けいじょう)上越市頚城区の教員で書家。幕末から昭和戦前の人。
奎城(けいじょう)→増田義一(ますだ・ぎいち)
増田桂堂(けいどう)高田藩榊原家のお抱え絵師。椿椿山(つばき・ちんざん)に学ぶ。幕末明治の人。
三浦顕栄(けんえい)高田にあった新潟大学高田分校にいた教授で洋画家。
倉石乾山(けんざん)高田城下町の豪商。上越市本町6丁目にあった「角の倉石家」主人。父・倉石米山とともに越後に来た南画家・釧雲泉(くしろ・うんぜん)に学ぶ。山水画が多い。幕末明治の人。倉石乾山、青木崑山、大滝石山の三人名声高く「頚城の三山」といわれた。
原本賢治(けんじ)高田の洋画家。東光会の新潟支部長。
石黒敬七(けいしち)柏崎市出身の柔道家。絵を描いた。時計などのコレクターで、とんちん館に遺される。
上杉謙信(けんしん)越後春日山城主で戦国大名。書状は貴重。
こ
月岡耕魚(こうぎょ)はじめ、坂巻耕魚 東京の能画家。娘は、高田の浄興寺に嫁いだ稲田(月岡)玉瀞。月岡芳年は師匠であり、義父(母の再婚した夫)。明治初期から昭和初期の人。
小林古径(こけい)高田出身の画家で東京美術学校教授。有名画家で評価高い。文化勲章受賞。高田藩士の子で高田で生れるが幼時に東京に転居。 明治から昭和戦後の人。
青木崑山(こんざん)高田郊外の稲田の絵師。大肝煎(おおきもいり、庄屋を支配した村役人)だったが、やめて絵に専念した。彫刻、篆刻もした。尾張の匂田台嶺(まがた・たいれい)京都の谷口靄山に学ぶ。幕末明治の人。倉石乾山、青木崑山、大滝石山の三人名声高く「頚城の三山」といわれた。
さ
千原三郎 柏崎市出身の洋画家。
し
棟方志功(むなかた・しこう)青森県出身の有名版画家。高田の陶芸家・齋藤三郎と親しく、若いころ高田で個展をしたことがある。疎開で富山県福光(現・南砺市)に住んだ。その関係で、齋藤三郎は福光で個展をした。
吉田十束(じっそく)高田出身の俳人。文化文政時代の人。
丸山尺蠖(しゃかく)上越市郊外の画家。水墨画を描いた。谷口靄山(あいざん)に学ぶ。幕末から大正の人。
小山松渓(しょうけい)高田藩士の子。蘭学者小山杉渓(さんけい)の養子。作例は山水画。幕末明治の人。
飯田松坡(しょうは)高田の絵師。稲田の青木崑山に学ぶ。仲町2(別院大門)に住んだ。幕末明治の人。
木村秋雨(しゅうう)高田郊外の旧三郷村下四ツ屋の禅僧。会津八一の書生を経験し、終生尊敬した。相馬御風の良寛研究を助けた盟友。「昭和の良寛」といわれる。毛筆は独自の書体。明治から昭和後期の人。糸魚川歴史民俗資料館、通称「相馬御風記念館」で業績が伝わる。
吉田正太郎(しょうたろう)号:縹亭(ひょうてい)、黒船館 柏崎市の数寄者。呉服商「花田屋」主人。自宅書斎を「黒船館」と命名し様々なものを蒐集した。文明開化資料は「柏崎七大コレクション」のひとつとされる。柏崎の黒船館にそれらが収蔵される。版画家川上澄生と親交があった。“縹亭”の号は昭和に入ってからで、縹は“花田”、亭は“屋”を意味する。書や版画をした。明治から昭和半ばの人。
原松洲(しょうしゅう)越後柏崎出身の儒者で教師。書画をかいた。江戸後期の人。
市島春城(いちしま・しゅんじょう)本名:謙吉 新発田市出身で早稲田大創立に尽した人。初代の図書館長として功績大。豪農市島家の分家生まれ。高田新聞の主筆をつとめた。大隈重信のもと国会議員になるが病気で断念。幕末から昭和戦前の人。
五十嵐浚明(いからし・しゅんめい)越後新潟の画家。江戸中期の人。
横尾深林人(しんりんじん)横尾翠田とも、別号:南田、翠田、九思、深林子、本名は信次郎、信二郎とも 高田出身の画家。上京し児玉白洋、小坂芝田、小室翠雲らに学ぶ。明治から昭和後期の人。
す
川上澄生(すみお)横浜出身の版画家で祖父は高田藩士。せ
下村静四郎(せいしろう)直江津出身の洋画家。直江津港付近の絵を描いた。石井柏亭に学ぶ。明治から昭和の人。
大滝石山(せきざん)上越市頚城区西福島の画家。越後に来た南画家・釧雲泉(くしろ・うんぜん)に学ぶ。茶道にも優れた。幕末明治の人。倉石乾山、青木崑山、大滝石山の三人名声高く「頚城の三山」といわれた。
井田雪峰(せっぽう)高田の骨董商。大町にあった骨董店は親しまれて客が多かった。仙田菱畝に絵を学ぶ。。
新井石禅(せきぜん)南魚沼市旧塩沢町の雲洞庵(うんとうあん)の住職をした禅僧。曹洞宗第11代管長、大本山総持寺貫主(かんじゅ、住職)、最乗寺(神奈川県)住職を歴任。雲洞庵には38歳から14年間在住。 新井石龍は養子。 *雲洞庵は幼少の上杉景勝と直江兼続が修行した名刹。
石塚仙堂(せんどう)直江津の画家。上越市安塚区の旧小黒村、仙田家出身。直江津の石塚家の養子となる。仙田菱畝の兄。川合玉堂、石塚仙堂に学ぶ。
川上松岳(しょうがく) 四代川上善兵衛、別号:天瓢斉 高田郊外の旧高志村北方の地主川上家の養子。四代川上善兵衛。江戸後期の人。*ブドウ園経営の川上善兵衛はこの人の孫で、六代川上善兵衛。
そ
富岡惣一郎(そういちろう)高田出身の洋画家。白黒の独自な画風「トミオカホワイト」で知られる。昭和から平成に活躍。
松野奏風(そうふう)東京の画家。高田の稲田玉瀞の父・月岡耕魚に学ぶ。能画を描いた。高田に作品が多くのこる。
た
金子大栄(だいえい)高田出身の僧で大谷大学名誉教授。真宗大谷派(東本願寺)。明治から昭和戦後の人。
仲田大二(なかた・だいじ)高田の教員で洋画科。上越市黒井出身。
倉石隆(たかし)高田出身の洋画家。
小田嶽夫(たけお)高田出身の芥川賞作家。高田に疎開。明治から昭和後期の人。
長尾為景(ためかげ)越後守護代。上杉謙信(長尾景虎)の父。
ち
楊州周延(ようしゅう・ちかのぶ)橋本直義 高田藩士から浮世絵師に転身した人。江戸詰高田藩士で戊辰戦争で戦った。東京で浮世絵師となった。明治に錦絵(多色刷りの版画)が発行され大人気となる。 *お詫び:「楊」が手へんの「揚」になっていたのを訂正しました(中国の「揚州」とは違う)。 ご指摘いただいた方に敬意を表し感謝いたします。
長 竹軒(ちょう・ちくけん)高田のち直江津に住んだ画家。大阪出身。父の長竹斉、田近竹遜に学ぶ。明治から昭和戦後の人。
富永竹村(ちくそん)上越市三和区神田の眼科医で画家。亀田鵬斎に漢学を学ぶ。江戸後期の人。
つ
て
と
山田東洋(とうよう)柏崎市の洋画家。
斎藤俊雄(さいとう・としお)高田出身の洋画家。中村不折に学ぶ。
鳴海虎一(とらいち)高田の能画家。大町に住んだ。
牧野虎雄(とらお)高田出身の洋画家で、東京の美大教授になった人。祖父は凧絵の名手の牧野角馬。幼時に東京転居。帝国美術学校と多摩美術学校(現在の美大)の教授をした。
鈴木魚都里(なつり)本名:重春 高田藩士で、俳人。江戸後期ころの人。
は 号、下の名前のあいうえお順
中根半仙(なかね・はんせん)
高田藩の藩医で書道師範。巻菱湖に学ぶ。藩主に書を教えた。江戸詰め高田藩士の子。半嶺の父。江戸後期の人。
中根半嶺(なかね・はんれい)
高田藩の藩医で書道師範。藩校修道館の書道教官をつとめた。 中根半仙の子で父の職をついだ。子は半湖。 隷書が得意。日本書道会創設につくした。
武田範之(はんし)上越市浦川原区の顕聖寺住職。曹洞宗。幕末明治の人。
ひ
戸田秀男(ひでお)高田出身の画家。同郷の斎藤俊雄とともにパリで洋画に精進した。中村不折に学ぶ。
前島 密 (ひそか)高田郊外の下池辺出身で、日本郵便制度の創始者。高田藩士の子。「郵便の父」と称される。漢詩を書を残す。幕末から大正の人。
ふ
山田文川(やまだ・ぶんせん)越後柏崎の画家。森蘭斎に学ぶ。
片桐文畝(かたぎり・ぶんぽ)柏崎市の画家。明治から大正の人。
へ
倉石米山(べいざん)高田城下町の豪商。上越市本町6丁目にあった「角の倉石家」主人。越後に来た南画家・釧雲泉(くしろ・うんぜん)に学び、絵を描いた。倉石乾山(けんざん)の父。江戸中期から後期の人。
高野米峰(べいほう)柏崎市の文人。長崎で日高鉄翁に南画を学んだ。
山崎弁栄(べんねい)辨榮 浄土宗の僧。仏画をよく描いた。柏崎市の極楽寺で亡くなった。
ほ
勝田忘庵(かつた・ぼうあん)柏崎市の文筆家で、書家、篆刻家。
増村朴斎(ぼくさい)上越市板倉区の教育者で、有恒学舎創立者。板倉の旧針村に有恒学舎を創立。郷土の人材を育成した偉人。
ま
榊原政敬(まさたか)高田藩最後の藩主。榊原家十四代。上越市の榊神社に祀られる。
牧田実(みのる)高田分校にいた新潟大学教授で洋画家。
小川未明(みめい)高田出身の童話作家。春日山神社小川澄晴の子。
も
や
会津八一(やいち)号:秋艸道人(しゅうそうどうじん)新潟市古町出身の美術史学者。板倉の有恒学舎で英語教師をしたのが最初の仕事だった。高田に疎開した写真家・濱谷浩とは交流深く、高田の濱谷宅を訪れた。高田の陶芸家・齋藤三郎を訪れ「泥裏珠光」の号を与えた。
ゆ
鳥越憂(とりごえ・ゆう)直江津の画家。
墨川亭雪麿(ぼくせんてい・ゆきまろ)本名:田中親敬 高田藩士で戯作者。江戸詰高田藩士の子で江戸に住んだ。*戯作者(げさくしゃ、ぎさくしゃ)は、通俗小説を書いた作家。
ら
北條頼浄(ほうじょう・らいじょう)高田の照行寺の住職で画家。裏千家茶人北條宗幽の父。田中頼章に学ぶ。
森 蘭斎(らんさい)越後新井(妙高市旧新井市街)出身の画家。長崎絵を熊代熊斐学(くましろ・ゆうひ)にぶ。加賀藩お抱え絵師になったという。
菅井蘭亭(すがい・らんてい)高田藩士。南画の大家・滝和亭(かてい)に学んだ。
り
仙田菱畝(せんだ・りょうほう)上越市安塚区出身の画家。旧小黒村の仙田家の養子で、直江津の石塚仙堂の弟。
竹内臨川(たけうち・りんせん)本名:忠雄 上越市板倉区出身の書家で新潟大学教授。書道科の創設に尽す。
白川林泉子(しらかわ・りんせんし) 上越市板倉区出身の教員で書家。俳句もした。
れ
磯野霊山(いその・れいざん)高田にいた新聞記者で画家。
文中で、高田は上越市の旧高田市街地、直江津は上越市の旧直江津市街地のこと。
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