三浦康廣(やすひろ) 美術作家メモもくじページ 遊心堂お店案内
書家三浦康廣は高田分校にいた新潟大学教授。慈雲(じうん)の書を研究し、自らは思雲と号した。
書家三浦康廣は高田分校にいた新潟大学教授。慈雲(じうん)の書を研究し、自らは思雲と号した。
三浦先生は、高田北城高校のとなりの借家で書道教室をしておられた。私(遊心堂加藤裕明)と弟は小学生時分、自転車で毎週習字に通った。三浦先生のおかげで書道は何度か賞を獲ったし同級生に褒められた。高田分校の廃校は昭和57年だが、それ以前の私が中学生にならない内に先生は教室を閉めて新潟市に転居されたように覚えている。非常に寂しいお別れであった。
今思い出すと小学生だからほとんど楷書だったが、目の前で手本を書いて下さり、それはそれは大変美しい書であった。私はお別れしてから二人の先生に習ったが、学生の手本を書くのでも三浦先生には到底及ばなかった。楷書ひとつ書くにも、大学教授と田舎の先生では全く違うものだと思った。三浦先生に習っていたことが非常に貴重なことだったと後からしみじみと感じた。私は書道をやめてしまったが、弟は続けて書道で教員となった。三浦先生に教わったことが良い基礎になっているように思う。
三浦先生からは毎年年賀状が来ていたが、90歳頃か、これを最後にする旨の年賀状が来た。その後亡くなったことを聞いたが、長生きされたようである。
今思い出すと小学生だからほとんど楷書だったが、目の前で手本を書いて下さり、それはそれは大変美しい書であった。私はお別れしてから二人の先生に習ったが、学生の手本を書くのでも三浦先生には到底及ばなかった。楷書ひとつ書くにも、大学教授と田舎の先生では全く違うものだと思った。三浦先生に習っていたことが非常に貴重なことだったと後からしみじみと感じた。私は書道をやめてしまったが、弟は続けて書道で教員となった。三浦先生に教わったことが良い基礎になっているように思う。
三浦先生からは毎年年賀状が来ていたが、90歳頃か、これを最後にする旨の年賀状が来た。その後亡くなったことを聞いたが、長生きされたようである。