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【齋藤三郎】新潟県上越市旧高田市の陶芸家

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号・陶齋(とうさい)、泥裏珠光(でいりじゅこう)
新潟県上越市旧高田市寺町の陶芸家。長岡市旧栃尾市出身。
昭和に活躍した高田の陶芸家。栃尾(現長岡市)生れ。
京都で近藤悠三、富本憲吉ら二人の人間国宝に学んだ。戦後に高田(当時は高田市)に定住した。寺町で兄の齋藤泰全さんが、久昌寺(きゅうしょうじ)住職をしていたので、昭和21年にたよってこられた。
昭和23年に窯を築いた。陶器も磁器もした。椿絵は最も得意とした図柄。色絵の磁器の皿や壷にすぐれた作品が多いようだ。白磁や灰釉(かいゆう)など、絵のない作品も多い。
陶齋を号とし、齋藤陶齋ともいう。現在は子の齋藤尚明さんが陶齋を襲名しておられるので、三郎さんが初代齋藤陶齋、尚明さんが二代齋藤陶齋ということになる。昔から号よりも本名で「三郎さん」と親しみをこめて呼ぶ人が多いようだ。
 

★三郎さんの想い出 遊心堂会長加藤良作(大正3年生れ)


「三郎さんは兄の泰全さんが久昌寺の住職をしていたので、たよって高田にこられました。お寺のうらに窯を築きました。
終戦直後に来たばかりの頃は、売る場所もなかったので、高田別院のおたやで台を出して、湯呑や食器を並べて売っておられました。お茶(茶道)の茶碗は2つ3つはあったかな、という程度でした。

三郎さんははじめ、わたしの父親(正作=しょうさく)の店に来られました。本町で骨董屋をしていた時分で、古いいい物があるので、作家にとって勉強になったからです。そのときわたしは親の小僧をしていましたから、親が話し相手でした。
棟方志功(版画家)さんと親しく、親の店に連れて来たこともあります。志功さんはそのときはまだ売れる前でした。変わった、面白い格好をしていました。青木さん(大潟区のお寺さんでお茶人)は三郎さんと仲良くしていましたねえ。三郎さんは、いろんな方を連れて来られました。

三郎さん、私、疎開していた濱谷さん(写真家の濱谷浩=はまやひろし)。三郎さんが一番年上で、私、濱谷さんの順で、歳がひとつ違いで続いていたのでわたしらは「三兄弟」と言っていました(笑)。

三郎さんは話し相手のためになる面白い話をする人で、それはとても上手でした。余計な事を話すおしゃべりではありませんでした。酒呑みでしたが、呑んで騒ぐ人ではありませんでした。

大杉屋さん、池田さん、石黒さん、藤林さん、金城(かねしろ)さん、登戸さん・・・大勢と仲良くしていました。映画館の弁士をしていた人は名前をなんといったか、太っ腹で多く買ってました。
小栗さんはよく、うちと三郎さんの所と半日づつ遊んで行きました。木村和尚は買うわけでなく、話をしによく行ってました。わたしはおつきあいで湯呑をよく買いました。
三郎さんの所に買いに行く人が多く、個展はそう多くはしなかったようです。

高田市立図書館(榊神社の向かいにあった)で「上杉謙信公展」をしましたが、三郎さんが音頭を取って実現したのです。わたしや小栗さんも協力して、米沢からいろいろ借りてきました。(昭和43年のことで、図録のあいさつ文に、上杉謙信公会会長・齋藤三郎、とある)
高田の朝市(大町)が好きでした。そのついでにうち(西城の遊心堂本店)に寄ったりされました。タケノコ、ふきのとう、うど、赤トウガラシなど、季節の野菜を買い、それを写生しました。齋藤尚明さん、森本昇さんがワラでつるしたトウガラシを描いてますが、はじめ描いたのは三郎さんです。
三郎さんに遊心堂の包装紙を描いてもらったのは、上越大和(昭和50年開店)ができる前のことです。(下の写真)

晩年はなかなか売るのがたいへんになりました。それでわたしが五人展と親子展を企画してあげたんです。会場は今はもうない平安閣でした。そのときは結構売れたと記憶しています。」終


上越地方は永くやきもの不毛の地でした。明治大正ころ、五智や金谷山でやきものをした人はいますが、経営を続けるのは難しく、短期間で廃業しています。三郎さんはこの地に根付いた最初の陶芸家なのです。近藤悠三、富本憲吉ら二人の人間国宝に学んだ技術はすごく、このような人が高田のような田舎町に居たというのは奇跡です。上越のみならず新潟県内各地に偲ぶ人がいらっしゃいます。新潟県の伝説の陶芸家といえましょう。
2007年に樹下美術館が上越市頚城区に開館。齋藤三郎さんの業績を伝えています。

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