【木村秋雨】新潟県上越市旧高田市郊外の禅僧

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明治39-昭和63  高田郊外の禅僧



高田郊外の禅僧木村和尚は、書物に埋もれて暮らし、読みにくいくずし字も読んだ。
加藤良作はしばしば読んでもらった。和尚自身も書をよくし、良寛を尊敬していた。
「良寛さんはウソ字は書かないが、自分はたまにウソ字を書く」と言った。
和尚の書は、独自のくずし字が多かった。
加藤良作は「遊心堂」の看板を書いてもらった。それも奔放(ほんぽう)な書体である。
半世紀ほど外に出ていて、字が消えてきたため、現在は本店(西城町)のなかに掛けている。

木村和尚は郷土史が好きで、上越の茶人について本に書いた。また茶道具には興味があった。だが茶の点前(てまえ)作法には無関心で、高田新田の不白流清水宗観の所に出入りするも稽古(けいこ)はせず、弟子というわけではなかった。茶会では自由勝手に振る舞うこともあったらしい。

 木村和尚は十代のとき、会津八一の歌集に感激した。過去に針村(板倉)の有恒学舎(ゆうこうがくしゃ)で教員をしていたのを知ると、入学した。そして舎主増村朴斉(ぼくさい)に紹介状をもらい東京に行き、会津八一との面会を果たす。
書生になるのは初対面の時でなく、警察官になるが辞め、禅僧になってからの30歳頃だった。断られた経緯があり、お手伝いがいなくなってやっと書生になることができた。2年ほどの書生だったが、秋艸道人会津八一を終生尊敬した。秋雨という雅号(がごう)にそれが表れている。

陶芸家・五智窯の木村隆(りゅう)には木村和尚が「五智窯」の看板を書いたという縁がある。下は木村和尚が「無事」という字を書いて、五智窯で焼いた茶碗。箱書は木村和尚。


下は木村隆の夫人・木村正子が描いたお雛さんの絵に和尚が賛をしたもの。

描いた当時は旧姓で、本山正子。昭和50年、遊心堂ダイワ店が開店した当初、店員されていた。遊心堂深田正明によるとそのころの絵で、おひなさんを描いて持ってきて、だれかに賛を書いてほしいと言ったという。


お礼
木村和尚が会津八一の書生になったいきさつは、サイト「あき乃」の「会津八一50話 ①家来 木村秋雨さん」を参考にさせていただき、要約させていただきました。
「あき乃」は新潟市本町の人情横丁にある小千谷そばと天ぷらのお店のサイトです。
木村和尚の生前に直接話しを聞いたのが文章になっており、語った口調で書かれていてとても面白く、参考になりました。祖父加藤良作は、木村和尚が押し掛け女房のように会津さんのところに住み込んでしまったと言っていて、このへんのいきさつは把握していなかったようです。「あき乃」さんありがとうございました。

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