二代目【加藤良作】について

加藤良作(りょうさく)大正3(1914)ー平成29(2017)享年103 

加藤良作(りょうさく)は、明治16年に現在の上越市本町(ほんちょう)3丁目に生れた。高田藩廃藩後は高田呉服町となり、高田市政となり高田市呉服町となった場所だ。
高田の骨董商加藤正作(しょうさく)の次男だが後継ぎであった。長男は正作の兄の養子となったためだった。 大手町小学校に通う時分から、茶道を不白流清水宗観に学んだ。良作は「胸を病み、(旧制の)中学を辞めた」という。その後の若い時分、東京日本橋の家具屋で働いた。親戚で丸山製作所を経営する内山家の世話があった。その後帰郷して正作のもとで働いた。


良作は、戦争になって福井県の軍隊に入隊した経験がある。復員後も正作のもとで働いた。当時のことを「親の小僧っ子だった」と言っていた。
昭和28年9月、数え40歳で古物商鑑札を得て、父のもとを離れ幸町(さいわいちょう)に移った。


昭和31年秋に、西城町(にししろちょう)3丁目に家を買い、そこで店を構えた。これは正作が晩年に寝込むようになったので、本町の正作の自宅兼店舗の「正美堂」を売り、西城町に家を買って住み、自分のもとで面倒を見たのだった。良作ははじめ「高田加藤」といい商売をしたが、屋号を考えて店を「遊心堂」と名付けた。
西城町3丁目は現在もなお、(有)遊心堂の本店所在地である。

良作ははじめ同業者相手の商売(卸売り)がほとんどだったが、徐々にお客さん相手の小売りもするようになった。
良作は茶道ははじめ不白流、のちに表千家を学び茶道具を主に扱った。江戸千家、表千家、裏千家の茶人や煎茶道の茶人と交流があった。蒔絵などの古漆器、伊万里焼など古陶器、箪笥など古民芸品も扱い、コレクター青山二郎と交流した。そのため青山二郎関連の本にしばしば良作もしくは遊心堂の名が見られる。
高田に疎開した文化人の詩人堀口大学、写真家濱谷浩らとは疎開を終えた後も長く交流があった。陶芸家齋藤三郎、禅僧木村秋雨ら郷土の文化人と交流し、ときに支援もした。吉原炎上で知られる画家斎藤真一は瞽女の取材で訪れ交流が続いた。また新潟大学高田分校の教授ら先生方々と親交があった。
人の援助や寄付をすることたびたびだった。高田ロータリークラブの会員で、社会貢献をし、会合を楽しみにした。名誉会員となった。

昭和50年に会社化し、有限会社遊心堂社長となった。娘婿の深田正明が専務となった。
これは、初代のイレブンビル社長・来海(きまち)氏から誘いがあり、上越大和(だいわ)のテナント出店が決まっていたためであった。開店に先がけて会社にしたのだった。
同年7月に、大和4階に遊心堂ダイワ店を開店した。ダイワ店は、茶道具を中心とした店だった。消耗品、稽古道具から取り揃えた。そのほか、贈答品に向いた陶器や漆器も扱った。

昭和56年から4年間、新潟県美術商組合の初代組合長をつとめた。平成時代に入っても良作は健康で、80代半ば頃まで商売をしていた。
平成10年には深田正明に社長を譲り、会長となった。

晩年の平成13年(当時87歳)には、皇族の高円宮さまに根付(ねつけ)を献上した。【高円宮さまに根付を献上した遊心堂加藤良作】

平成 25(2013)年1月29日で、満99歳。数えで100歳を迎えた。
平成29(2017)年9月6日(水) 午前6時15分、老衰のため上越総合病院で他界。享年103歳の大往生だった。

終り  有限会社遊心堂 加藤裕明(良作孫養子)
アートサロン遊心堂HP>2020(令和2)年2月更新