◆遊心堂の変遷(社史)-お店のこれまで-◆

◆遊心堂の変遷(社史)-お店のこれまで-
正美堂ー遊心堂ー遊心堂ダイワ店ーアートサロン遊心堂

●加藤正作の骨董店―商人のまち高田本町で創業―

加藤正作(しょうさく)は、高田市(現上越市)の商人のまちである本町(ほんちょう)に生まれ住みました。大正2年(1913)に骨董商に必要な古物商鑑札を得ました。有限会社遊心堂では、これを創業年としています。大正8年に骨董店を始め、本町3、4丁目を何度か移転し、最後は本町2丁目に落ち着きました。屋号は、「加藤骨董店」と称した時代もありましたが、最後は「正美堂(しょうびどう)」としました。茶道具を主とした店でした。正美堂がその後の遊心堂の前身です。

●加藤良作が西城町に遊心堂を開店―高田本町を一時離れる―

正作の子・加藤良作(りょうさく)は、長年父のもとで働きました。昭和31年秋に、西城町(にししろちょう)3丁目に家を買い、そこに店を構えました。はじめは「高田加藤」といい商売をしましたが、屋号を考え「遊心堂」と名付けました。そのときすでに正作は病身で良作は自分のもとで面倒を見たので、正美堂が遊心堂と名を変えて移転した形になりました。正美堂は消滅したが、遊心堂にその精神は受け継がれました。西城町3丁目の西しろ店が現在もなお、有限会社遊心堂の本店所在地です。

▼遊心堂西しろ店。現在小売り営業はしていません。

看板を木村秋雨(しゅうう)和尚に書いてもらいました。昭和50年2月13日に会社設立。「有限会社遊心堂」となり、加藤良作が社長、娘婿の深田正明が専務となりました。これは、遊心堂ダイワ店開店に先がけて会社にしたのでした。
イレブンビルは、大和(だいわ、本社金沢市)がキーテナントになるということで建ったビルでした。株式会社イレブンビルの初代社長・来海(きまち)氏の誘いで、遊心堂は「専門店」として、イレブンビルとの契約でテナント出店をしました。

▼大和上越店 本町4丁目にあったデパート。ビル名はイレブンビル。昭和50年開店〜平成22年閉店

●上越大和に遊心堂ダイワ店が開店―古巣の高田本町へ戻る―

昭和50年(1975)7月、本町4丁目に大和上越店が開店すると同時に「遊心堂ダイワ店」が4階に開店しました。また古巣の本町で商売をすることになりました。

これまではもっぱら古物(こぶつ)を売買していましたが、新物(あらもの又はしんもの、新品)もあつかうようになりました。特に贈答品には包装紙が必要ということで、「遊心堂」のロゴは木村秋雨和尚に書いてもらい、包装紙の絵は高田の陶芸家・齋藤三郎氏に描いてもらいました。本店は西城町でダイワ店は支店でしたが、遊心堂の主店舗となって永くお客様に親しまれました。


▼遊心堂包装紙 齋藤三郎画、遊心堂ロゴは木村秋雨和尚書 

  

加藤良作は昭和56年から4年間、新潟県美術商組合の初代組合長をつとめました。のちに有限会社遊心堂は東京美術倶楽部(東京美術商協同組合)の組合員となりました。良作の80歳での加入は異例のことでした。平成10年5月10日に深田正明が社長に就任し、社長を退いた加藤良作は会長となりました。深田正明は平成16年から2年間、新潟県美術商組合の会長を歴任しました。

●まちの活性化策のイレブンギャラリー―高田本町の衰退―

平成19年(2007)には遊心堂ダイワ店の通路をへだてたななめ隣りに「イレブンギャラリー」をオープンしました。イレブンビル(大和のビル)からの名称でした。

この頃には大和は集客力が衰退して、高田のまち自体が往年のにぎわいがなくなっていました。イレブンギャラリーは出店業者が撤退した場所で、そこをイレブンビル2代目・来海(きまち)社長との相談で、遊心堂が借り受けました。
大和の活性化、高田のまちの活性化のためということで、イレブンギャラリーでは商品販売のみならず、楽しんで見てもらう企画展や鑑定会を実施しました。

また、平成20年(2008)8月にはホームページとブログを開始しました。このころはインターネットの普及で、自社サイトがあるのが当然になりつつありました。

●大和撤退で35年足らず親しまれた遊心堂ダイワ店も閉店へ―高田本町に衝撃―

平成21年(2009)、加藤正作の骨董店開店から90年を迎えました。同年4月には、イレブンギャラリーに刺激を受けて、となりに學be屋(まなびや)というカルチャースクールができました。来海社長の活性化策でした。
しかし同年10月、衝撃的な「大和撤退」が報じらました。その後イレブンビルから、キーテナントの大和が撤退すると、残る「専門店」と呼ばれた店だけでは、ビルの維持は無理だと告げられ、大和の撤退と同時に専門店も撤退するよう命じられました。
平成22年4月25日、大和上越店は閉店し、およそ35年続いた遊心堂ダイワ店もやむなく閉店しました。
大和の撤退は高田本町商店街にとっても衝撃の出来事でした。大和からの流れで集客がある店が少なくなかったのです。
※当時の写真遊心堂ダイワ店の光景を見る

▼大和上越店が閉店と同時に遊心堂ダイワ店も閉店。平成24年にはイレブンビルが解体された。



●本町通りにアートサロン遊心堂がオープン―高田本町で商売継続―

平成22年(2010)年6月12日、ダイワ店から移転した「アートサロン遊心堂」が本町4丁目の八十二銀行向かいにオープンしました。加藤正作が本町2丁目の路面店を閉めてからおよそ50年、半世紀ぶりの商店街路面店となりました。遊心堂お店案内

アートサロン遊心堂は本町4丁目に2010(平成22)年6月12日オープン

平成25年(2013)、加藤正作が古物商鑑札を取得してから100年を迎えました。当社ではこれを「創業100周年」としています。
また、同年には長崎屋跡地に「あすとぴあ高田」、大和跡地に「イレブンプラザ」がオープンしました。これで高田本町商店街はやや持ち直したようです。

「アートサロン遊心堂」の名称はマスコミやホームページ、ギャラリーブログを通じて浸透してきました。ただし、開店時は従来の遊心堂のロゴのみだったので、お店の入口上は遊心堂のみになっております。「アートサロン遊心堂」としたのはインターネット時代にあって、他の遊心堂との混同を避ける意味と、遊心堂ダイワ店の隣にあった「アートサロン」を継承したものです。上越大和4階にあった「アートサロン」は、大和主催で美術作家の個展などを開き、長年お客様に親しまれました。

2016年頃からSNSも活用しております。お客様からSNSで発信していただく場合、ハッシュタグ #アートサロン遊心堂 を入れて下さいますようお願いします。
令和2年(2020)で「アートサロン遊心堂」開店から10年になります。
令和5年(2023)で「創業110周年」になります。



二代目【加藤良作】について

加藤良作(りょうさく)大正3(1914)ー平成29(2017)享年103 

加藤良作(りょうさく)は、明治16年に現在の上越市本町(ほんちょう)3丁目に生れた。高田藩廃藩後は高田呉服町となり、高田市政となり高田市呉服町となった場所だ。
高田の骨董商加藤正作(しょうさく)の次男だが後継ぎであった。長男は正作の兄の養子となったためだった。 大手町小学校に通う時分から、茶道を不白流清水宗観に学んだ。良作は「胸を病み、(旧制の)中学を辞めた」という。その後の若い時分、東京日本橋の家具屋で働いた。親戚で丸山製作所を経営する内山家の世話があった。その後帰郷して正作のもとで働いた。


良作は、戦争になって福井県の軍隊に入隊した経験がある。復員後も正作のもとで働いた。当時のことを「親の小僧っ子だった」と言っていた。
昭和28年9月、数え40歳で古物商鑑札を得て、父のもとを離れ幸町(さいわいちょう)に移った。


昭和31年秋に、西城町(にししろちょう)3丁目に家を買い、そこで店を構えた。これは正作が晩年に寝込むようになったので、本町の正作の自宅兼店舗の「正美堂」を売り、西城町に家を買って住み、自分のもとで面倒を見たのだった。良作ははじめ「高田加藤」といい商売をしたが、屋号を考えて店を「遊心堂」と名付けた。
西城町3丁目は現在もなお、(有)遊心堂の本店所在地である。

良作ははじめ同業者相手の商売(卸売り)がほとんどだったが、徐々にお客さん相手の小売りもするようになった。
良作は茶道ははじめ不白流、のちに表千家を学び茶道具を主に扱った。江戸千家、表千家、裏千家の茶人や煎茶道の茶人と交流があった。蒔絵などの古漆器、伊万里焼など古陶器、箪笥など古民芸品も扱い、コレクター青山二郎と交流した。そのため青山二郎関連の本にしばしば良作もしくは遊心堂の名が見られる。
高田に疎開した文化人の詩人堀口大学、写真家濱谷浩らとは疎開を終えた後も長く交流があった。陶芸家齋藤三郎、禅僧木村秋雨ら郷土の文化人と交流し、ときに支援もした。吉原炎上で知られる画家斎藤真一は瞽女の取材で訪れ交流が続いた。また新潟大学高田分校の教授ら先生方々と親交があった。
人の援助や寄付をすることたびたびだった。高田ロータリークラブの会員で、社会貢献をし、会合を楽しみにした。名誉会員となった。

昭和50年に会社化し、有限会社遊心堂社長となった。娘婿の深田正明が専務となった。
これは、初代のイレブンビル社長・来海(きまち)氏から誘いがあり、上越大和(だいわ)のテナント出店が決まっていたためであった。開店に先がけて会社にしたのだった。
同年7月に、大和4階に遊心堂ダイワ店を開店した。ダイワ店は、茶道具を中心とした店だった。消耗品、稽古道具から取り揃えた。そのほか、贈答品に向いた陶器や漆器も扱った。

昭和56年から4年間、新潟県美術商組合の初代組合長をつとめた。平成時代に入っても良作は健康で、80代半ば頃まで商売をしていた。
平成10年には深田正明に社長を譲り、会長となった。

晩年の平成13年(当時87歳)には、皇族の高円宮さまに根付(ねつけ)を献上した。【高円宮さまに根付を献上した遊心堂加藤良作】

平成 25(2013)年1月29日で、満99歳。数えで100歳を迎えた。
平成29(2017)年9月6日(水) 午前6時15分、老衰のため上越総合病院で他界。享年103歳の大往生だった。

終り  有限会社遊心堂 加藤裕明(良作孫養子)
アートサロン遊心堂HP>2020(令和2)年2月更新

遊心堂ダイワ店の場面集|大和上越店4階

遊心堂ダイワ店は上越大和(大和上越店)の4階にあったお店。大和開店の1975(昭和50)年7月から、大和閉店の2010(平成22)年4月25日まであったお店です。35年足らず、上越大和と運命をともにしました。その場面を1ページにまとめた場面集です。

下写真は開店当初のお店で4階の北階段前にありましたがその後、大和の都合で南階段前に移動しました。


ここから4階南階段前のお店。

































































テレビの鑑定団に出演した石井久吾さんを招いて鑑定会をしたとき。人だかりができて盛況でした。






下の写真で、手前左側が遊心堂ダイワ店、向こうがイレブンギャラリーです。


以下は、イレブンギャラリー
イレブンギャラリーは晩年の2007(平成19)からハス隣りの空いていた場所を借り受けて、遊心堂が運営したギャラリーです。商品展示のほか、企画展、鑑定会、講座などを開催してイレブンビル(大和)の集客に貢献しました。





イレブンギャラリーがオープンしてから、お宝鑑定会、掛軸表具相談会を開催するようになりました。











謙信公錦絵展は大変盛況でした。




NHKが謙信公の錦絵版画のことを当店のブログで知り取材に来られました。当店が提供した版画の画像が上杉謙信公の番組放送で使用されました。




古文書の講座の光景。